【エンタメ朝鮮王朝実録】初代王はなぜ後継者争いで間違った選択をしたのか

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高麗王朝を滅ぼした李成桂(イ・ソンゲ)は、自ら太祖(テジョ)として即位し朝鮮王朝を建国した。しかし、その王朝の未来を、太祖はどれほど真摯に見つめていたのだろうか。そう感じさせるのは、太祖が世子の指名において、あまりにも意外な判断を下したからである。

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太祖には、ふたりの正妻がいた。最初の妻、神懿(シヌィ)王后との間には、芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳穀(バンイ)、芳幹(バンガン)、芳遠(バンウォン)、芳衍(バンヨン)という6人の息子がいた。

太祖が活躍した高麗王朝では、一夫多妻制が当たり前であった。とりわけ、戦で名を上げた名将ともなれば、故郷の妻に加えて、都に別の妻を住まわせることが多く、そのような妻は「京妻」と呼ばれた。

太祖にとっての「京妻」は、神徳(シンドク)王后である。彼女との間には七男の芳蕃(バンボン)と八男の芳碩(バンソク)という、ふたりの息子がいた。

このように太祖には8人の息子がいたが、その中でも、王朝創設において最も多大な貢献を果たしたのは、五男・芳遠であった。彼は冷静な知略と熱き情熱をあわせ持ち、父の政敵を排除する際にもその剛腕を惜しみなく振るった。人をまとめる才に長け、まさに次代の王にふさわしい資質を備えていた。

『太宗イ・バンウォン~龍の国~』
時代劇『太宗 イ・バンウォン~龍の国~』は太祖の動向を詳しく描いていた(写真=KBS)

異母兄弟同士の血を争う悲劇

だが、太祖が世子に指名したのは、意外にもまだ幼い八男・芳碩であった。時は1392年。芳碩はわずか10歳、芳遠は25歳の壮年であった。父のこの決定に、芳遠の怒りは雷のように激しく、納まりきらぬ不満が胸中を燃やした。

誰が見ても、この指名は常軌を逸していた。太祖は当時57歳。なぜこのような不合理な選択をしたのか。

その背景には、深い人間模様が横たわっていた。前年に神懿王后が亡くなり、太祖のそばにいたのは神徳王后だけであった。太祖は彼女を溺愛し、その言葉に逆らうことができなかった。ついには、後継者という国家の命運をも左右する重要な選択を、愛妻の意に従うかたちで決めてしまった。

それは、情に流された判断であった。その選択が導いたのは、結局は、異母兄弟同士の血を争う悲劇であったのだが…。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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