トンイが粛宗から冷遇されてしまった理由は何だったのか【歴史検証】

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韓国時代劇『トンイ』の主人公であるトンイは、歴史上では淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)と言われている。彼女は1670年に生まれ、後に粛宗(スクチョン)の側室になったが、史実の淑嬪・崔氏はドラマとは違う顔を持っていたようだ。

粛宗の統治時代、官僚の派閥では西人派と南人派が激しく争っていた。

そして、西人派が意図的に王宮に送り込んだ女性が淑嬪・崔氏だという可能性が高い。その背景とは何か。

1688年に、側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗の長男を産んだ。その翌年には正室の仁顕(イニョン)王后が廃妃となり、張禧嬪が王妃に昇格した。

当時は、仁顕王后を支持していた西人派と張禧嬪を支持していた南人派が対立していたが、仁顕王后の廃妃で西人派が没落しかけていた。

劣勢の西人派が挽回するために、粛宗が気に入るような女性として淑嬪・崔氏を送り込んだのではないか。そんな推察も成り立つ。

2010年の『トンイ』制作記者会見での一枚。ドラマではチ・ジンヒが粛宗を演じた

1694年4月、「張禧嬪の兄であった張希載(チャン・ヒジェ)が淑嬪・崔氏を毒殺しようとした」という告発が粛宗のもとに寄せられた。王宮は騒然となり、粛宗は重大な決断をした。

それは、張希載を済州島(チェジュド)に流罪にしたうえで張禧嬪を王妃から側室に降格させる、ということだった。王妃の座が空いたので、仁顕王后が復位することになった。西人派が巻き返すことに成功したのだ。

淑嬪・崔氏は、1694年の秋に粛宗の息子を産んでいる。後の21代王・英祖(ヨンジョ)である。

1701年8月、仁顕王后が亡くなった。その40日後、淑嬪・崔氏が粛宗に対して「張禧嬪が仁顕王后を呪詛(じゅそ)していた」と告発した。それによって、張禧嬪は死罪となった。

仁顕王后が亡くなって王妃の座が空いたが、粛宗は淑嬪・崔氏を昇格させないで、新たに仁元(イヌォン)王后を正室に迎えた。
その一方で、淑嬪・崔氏を王宮の外に出してしまった。以後も会っていない。

なぜ粛宗はトンイに冷たくなかったのか

なぜ、粛宗は急に淑嬪・崔氏に冷たくなったのか。

ドラマ『トンイ』では描かれていない複雑な関係が粛宗と淑嬪・崔氏の間にあったに違いない。もしかしたら、粛宗は淑嬪・崔氏が裏でいろいろと画策していたことを知ったのでは……。

その可能性は十分にある。張禧嬪が呪詛をしていたという淑嬪・崔氏の告発も、真実であったのかどうか。そう思わせるほど、淑嬪・崔氏の背後には不気味な疑惑がある。

(文=康 熙奉/カン・ヒボン)

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