1724年、トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)の息子だった延礽君(ヨニングン)は、21代王の英祖(ヨンジョ)として即位した。
英祖の即位は老論派の復活を意味していた。先の景宗(キョンジョン/チャン・ヒビンの息子)の治世時代に老論派は少論派によって弾劾されたが、今度は老論派が少論派を駆逐する番になった。
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朝鮮王朝では新しい王に代わるとき、先代王時代の政治が蒸し返されて公然と報復が行なわれることが多かった。政権に返り咲いた老論派は、少論派の高官たちの処罰や追放に躍起になった。
しかし、英祖は報復に熱心な側近たちを抑えた。なぜなら、彼は各派閥から公平に人材を登用する構想を温めていたからだ。これは蕩平策(タンピョンチェク〕と呼ばれるもので、英祖の治世を代表する政策の一つになった。
確かに、蕩平策は多くの人材を生かすうえで効果を発揮した。派閥の枠にとらわれて働く場を得られなかった有能な官僚たちが重職に就き、彼らがその職務を全うすることで政治が活性化していった。
自信を深めた英祖は、党争を克服して政治改革を進める意欲を見せた。そういう点では、実に頼もしい王であった。
英祖の正妻は貞聖(チョンソン)王后だったが、二人の間に子供はいなかった。英祖の最初の息子は、側室の靖嬪・李氏(チョンビン・イシ)が産んだ孝章(ヒョジャン/1719年生まれ)だった。しかし、この長男はわずか9 歳で病死してしまった。
その後は側室との間にも息子が生まれず、王の後継者がまったくいないという状況が長く続いた。
英祖もどれほど気にかけていたことだろうか。
それだけに、1735年に側室の映嬪・李氏(ヨンビン・イシ)が二男の荘献(チャンホン)を産んだときは、英祖もことのほか喜んだ。
しかし、荘献は1762年に米びつに閉じ込められて餓死させられた。素行の悪さを英祖によって糾弾された結果だった。
荘献が世を去ったあとに、英祖は息子に思悼世子(サドセジャ)という尊号を贈ったが、それは後の祭りである。
英祖は思悼世子を死なせたことを後悔しながら、1776年に82歳で亡くなった。その王位は、イ・サンこと正祖(チョンジョ)が継いだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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