朝鮮王朝の第16代王の仁祖(インジョ)は、亡くなったときに尊号として「祖」という漢字を贈られている。これは、国家にとって非常に貢献した王に贈られる漢字であり、仁祖はその栄誉を受けたわけだ。しかし、この栄誉は、仁祖から恩恵を受けた高官たちがゴマすりで行なったことだ。
彼が本当にやったことは、果たして立派な名前に見合うことなのか。むしろ、国家にとって災いを多くもたらしたのではないだろうか。
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彼はもともと綾陽君(ヌンヤングン)という王族の一員だったが、弟が政治的な動きをして光海君(クァンヘグン)によって死罪になったことで、光海君をとても恨んでいた。
その気持ちが高じて、同じように光海君に恨みを持つ仲間を集めて、1623年にクーデターを起こした。光海君があまりに油断していたこともあって、クーデターは成功し、綾陽君は仁祖として即位することになった。
しかし、仁祖は光海君と比べても政治的に失敗が多かった。一番いけなかったのは、北方の異民族の後金を軽視して、むやみに侵攻を許したことだった。
光海君は外交が巧みで、後金にも配慮を重ねて決して侵攻されないように努めていた。そんな努力もせず、結局仁祖は後金から国号を変えて清となった隣国に完敗して1637年に莫大な賠償金を取られ、息子三人も人質に取られてしまった。このとき、仁祖は清の皇帝に対して額を地面にこすりつけて謝罪もしている。これほどの屈辱を受けた国王は、朝鮮王朝では他にいなかったほどだ。
まさに朝鮮王朝が受けた国難は、仁祖の浅はかな考えが招いたのだ。
さらに、人質から解放されて1645年に朝鮮半島に戻ってきた仁祖の長男の昭顕(ソヒョン)世子は、帰国から2か月あまりで急死している。長男と不仲であった仁祖が昭顕世子を毒殺したと見なされており、そういう疑いをかけられること自体が国王として失格であろう。
しかも、彼は昭顕世子の一家を滅ぼして、正当な後継者の順番を歪めてしまった。
こうした悪政を重ねた仁祖は、本来なら国王になってはいけない人であった。そんな人物が国王になってしまったところが「朝鮮王朝の悲劇」であった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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