【あまりに無念の世子嬪】性悪な仁祖によって滅ぼされた一家は誰なのか

2023年03月06日 歴史 #康熙奉コラム #写真
このエントリーをはてなブックマークに追加

朝鮮王朝の歴代王の中で極端に陰湿で評判が悪かったのが16代王の仁祖(インジョ)である。彼は1623年に15代王・光海君(クァンヘグン)を王宮から追放して王位に就いたが、在位中は失政だらけだった。

【関連】【王朝の闇】「悲劇の王」とされる仁祖インジョが重ねた悪政の数々

外交でも失敗して清の大軍に攻撃されて、1637年に清の皇帝の前にひざまずいて謝罪した。もちろん、謝罪だけで済むわけがなく、莫大な賠償金を取られた上に3人の息子たちが人質になった。

こうして長男の昭顕(ソヒョン)世子は、清の首都の瀋陽に連れて行かれたが、このときは妻の姜(カン)氏も一緒だった。

かりにも朝鮮王朝の世子夫婦なのに、清は無神経であり、「勝手に暮らしていけ」という不遜な態度だった。しかし、昭顕世子と姜氏はかなり才覚があり、朝鮮人参を手広く扱って商いを成功させた。夫婦は人質だったとはいえ、大国の文化に接して見聞を広めた。

その中で昭顕世子と姜氏の評判がとても良くなり、その噂を聞いた仁祖は途端に機嫌が悪くなった。さらに、「世子と清が結託して余を王位から引きずり降ろそうとしている」と不信感を募らせた。

『華政[ファジョン]』でキム・ジェウォンが仁祖を演じていた

王位継承の仕組みを変えた王

1645年、人質生活から解放されて昭顕世子と姜氏は故国に帰ってきたが、仁祖の態度は冷たかった。彼は清の文化を礼賛する息子に腹を立てて、硯(すずり)を投げつけたと言われている。

その2カ月後に昭顕世子が急死した。仁祖によって毒殺されたと見られている。しかも、仁祖は昭顕世子の葬儀を冷遇し、王位継承の仕組みまで変えてしまった。本来なら、昭顕世子の長男が世子の座につくはずなのに、仁祖は自分の二男(昭顕世子の弟)を世子にした。

それだけではなかった。「自分を毒殺しようとした」とありもしない嫌疑をかけて姜氏を死罪にして、姜氏の3人の息子を済州島に流してしまった。こうして仁祖は昭顕世子と家族を社会的に抹殺した。

姜氏は本当に無念であった。清の人質時代に才覚を発揮して活躍した彼女は、陰湿な国王の標的になってしまい、命を無惨に奪われた。本当に気の毒な世子嬪(セジャビン/世子の妻)であった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

【関連】光海君と仁祖は悪夢のような「伯父と甥」の関係だった!

【関連】〔歴史事件簿〕なぜ仁祖は光海君を暴君に仕立てようとしたのか

【関連】『華政(ファジョン)』が描いた「朝鮮王朝最大の屈辱」とは?

前へ

1 / 1

次へ

関連記事


RANKINGアクセスランキング

写真


注目記事