【韓ドラになった歴史人】『ヘチ』に登場する景宗はどんな国王だったのか

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朝鮮王朝第20代王・景宗(キョンジョン)といえば、『トンイ』ではユン・チャン、『テバク~運命の瞬間(とき)~』ではヒョヌ、『ヘチ 王座への道』ではハン・スンヒョンが演じた国王である。

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景宗は、朝鮮王朝第19代王・粛宗(スクチョン)の長男として1688年に生まれた。母は張禧嬪(チャン・ヒビン)であり、彼女の強い影響のもと、わずか2歳で世子に立てられた。しかし、1701年に張禧嬪が罪に問われて死罪となると、景宗は政治的な後ろ盾を失い、孤立を深めることとなった。

張禧嬪の死後、景宗は一時、粛宗の正室であった仁顕王后(イニョンワンフ)の影響を受けた。しかし、宮廷内では彼の母に対する強い反発が残り、特に老論派の勢力は彼を快く思わなかった。粛宗は晩年、自身の後継者問題に慎重な姿勢を見せたが、結局、長男である景宗を世子のままとした。

1720年に粛宗が世を去り、景宗は20代王として即位した。しかし、当時の朝廷では老論派と少論派の対立が激化しており、少論派の支持を受けていたものの、勢力の強い老論派に対抗することはできず、政治的立場は極めて不安定であった。

老論派は景宗の異母弟である延礽君(ヨニングン、後の21代王・英祖〔ヨンジョ〕)を支持し、少論派の勢力を抑えようとしたため、景宗の治世は常に党派抗争に翻弄されることとなった。

『ヘチ』の景宗
韓国時代劇『ヘチ』ではハン・スンヒョンが景宗を演じた(写真出典=韓国SBS『ヘチ』公式サイトより)

誠実な人柄と温厚な性格な国王

景宗は即位後、少論派を重用しようと試みたが、老論派の圧力によって思うように政務を進めることができなかった。特に、景宗を擁護する少論派の中でも過激な一派は、英祖の排除を図る動きを見せたため、宮廷の緊張はさらに高まった。この状況により、景宗は心労を募らせ、健康状態が悪化していったとされる。

それでも景宗は政治に関心を持ち、重要な決定には自ら関与しようとする姿勢を見せていた。特に王権の強化や民生の安定を図るため、少論派と協力しようと努めた。しかし、母である張禧嬪の悪評が影響し、彼自身の評価にも影を落とした。

在位期間はわずか4年間であり、その間に大きな業績を残すことはできなかったが、少論派による英祖の排除を防ぐなど、兄としての情を示す場面もあった。

景宗は病弱であり、晩年には政務を執ることすら困難なほど健康が悪化した。1724年、36歳で急死したが、その死因については今なお議論の的となっている。一説には病死とされるが、急死したことから老論派による毒殺説も存在する。

景宗の死後、王位は弟の英祖が継ぐこととなった。英祖は52年間にわたり統治し、朝鮮王朝の安定を築くことになる。しかし、もし景宗が長命であったならば、朝鮮の歴史は異なるものになっていたかもしれないという議論も存在する。

景宗は政治的な手腕を発揮する機会が限られたが、その誠実な人柄と温厚な性格によって、臣下や民衆から敬愛された国王であった。彼の治世は短かったものの、朝鮮王朝の歴史の中で特異な位置を占める存在である。

【景宗の人物データ】

生没年
1688年~1724年

主な登場作品()内は演じている俳優
『トンイ』(ユン・チャン)
『テバク~運命の瞬間(とき)~』(ヒョヌ)
『ヘチ 王座への道』(ハン・スンヒョン)

文=大地 康

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