1724年8月30日のことだった。昌慶宮(チャンドックン)において、ヨニン君は力強く荘厳な空気の中で、21代王・英祖(ヨンジョ)として、その威厳あふれる即位式を執り行った。この日、30歳に達した彼は、19代王の粛宗(スクチョン)に深く愛された淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ/ドラマ『トンイ』のヒロイン)の息子であり、その血筋の栄光を胸に抱いていた。
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英祖の即位は、政治の舞台における老論派の華々しい復活を象徴していた。先代王の景宗(キョンジョン)の治世時、老論派は少論派によって厳しい弾劾を受けていたが、運命の転換により、今や彼らが少論派を勢力の外へと追いやる時が来たのだ。
朝鮮王朝の慣習として、新たな王が即位する際には、しばしば先代王時代の政治が再燃し、公然とした報復が行われることが多かった。政権を取り戻した老論派は、少論派の高官たちに対する処罰や追放に熱心に取り組んだ。
しかし、英祖は、報復に熱心な側近たちを冷静に牽制した。というのも、彼は派閥を超えた公平な人材登用を目指すという大胆な構想を温めていたのだ。これは蕩平策(タンピョンチェク)と呼ばれ、彼の治世を象徴する政策の一つとなった。
確かに、この蕩平策は、多くの人材を有効活用するという点で大いに効果を発揮した。これまで派閥に縛られて活躍の場を得られなかった有能な官僚たちは、重要な職に任命され、その職務を果たすことで、朝鮮王朝の政治は新たな活力を得た。
自信を深めた英祖は、党争を克服し、政治改革を進める強い意欲を示した。彼は、その頼もしさと決断力で、実に立派な王としての資質を発揮した。
ただし、彼が目指した王政は順風満帆ではなかった。特に、英祖を悩ませたのは、“景宗毒殺の首謀者”という根深い噂であった。
この噂を武器に、少論派は英祖と老論派に対して攻撃を仕掛けた。即位したばかりの英祖は、周囲の反感を抑えつつ、慎重に王命を出す必要があった。
それほどまでに英祖を悩ませた“景宗毒殺説”とは一体何だったのだろうか。
(中編に続く)
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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