【劣等感の根拠】英祖はトンイの息子であったことをどれほど恥じていたのか

2023年04月25日 歴史 #康熙奉コラム #写真
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英祖(ヨンジョ)は1694年に生まれている。この年がどういう時期だったかを改めて考えてみよう。1694年の春に、王妃だった張禧嬪(チャン・ヒビン)が側室に降格している。

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そうやって空いた王妃の座に、かつて廃妃になっていた仁顕(イニョン)王后が復位してきた。この時、朝鮮王朝の王宮では大変な騒動になっていた。張禧嬪の兄であった張希載(チャン・ヒジェ)がトンイ(淑嬪・崔氏〔スクピン・チェシ〕)を毒殺しようとしたことが摘発されたからである。

当時、トンイは粛宗が一番寵愛する側室であった。そんな側室を張禧嬪の兄が毒殺しようとしたのは、明らかに粛宗から疎まれていた張禧嬪が黒幕になっていたと思われても仕方がない。それが、張禧嬪が王妃から側室に降格になった理由であった。

こうして仁顕王后が再び王妃になった後、王宮は安定を取り戻して、相変わらずトンイは粛宗の寵愛を受けていた。その年の秋に生まれたのが粛宗の次男である。後の英祖であり、母親はトンイであった。

その英祖が生まれて7年後となる1701年8月に仁顕王后が亡くなり、その直後に張禧嬪が仁顕王后を呪詛(じゅそ)していた事実が発覚し、再び王宮は大混乱に陥った。張禧嬪の呪詛を粛宗に告発したのはトンイであった。

『ヘチ 王座への道』ではチョン・イルが英祖を演じた(写真=韓国SBS『ヘチ 王座への道』韓国ポスター)

82歳まで長生きした英祖

粛宗は即座に張禧嬪の死罪を決定した。この時粛宗は張禧嬪の子供であった世子(セジャ)を廃してトンイの産んだ次男を世子に昇格させるという決断をしても不思議ではなかった。しかし粛宗はそうせず、張禧嬪が死罪になりながら、息子は世子のままでいることができた。

粛宗にはどんな思惑があったのだろうか。もしかしたら、トンイの出身があまりにも低かったことを気にかけたのかもしれない。何しろ彼女は王宮で下働きをしていた女性であり、粛宗はトンイを愛しながらでも、その息子を世子にすることには躊躇があったのかもしれない。

強烈な身分制度に支えられていた朝鮮王朝では、下働きという身分の低い女性を王妃にすることはできなかったし、その息子を世子にすることも難しかった。

結局、張禧嬪が産んだ世子は1720年に国王の景宗(キョンジョン)となったが、在位わずか4年で世を去り、英祖が国王となった。彼は母親の身分が低かったことに強いコンプレックスを持っていたと言われている。

英祖は非常に偏屈な性格だったが、母親の身分のことで小さい頃から王宮の中で様々な差別を受けてきたことも一因していたに違いない。そんな英祖が82歳まで長生きして52年間も国王であり続けたということも不思議な縁を感じる。彼は何よりも強いからだに生んでくれたトンイに大いに感謝すべきであっただろう。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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