21代王・英祖(ヨンジョ)の最初の妻は、貞聖(チョンソン)王后である。2人の間に子供はいなかったが、英祖の側室が王子を産んだ。それが孝章(ヒョジャン)である。
長男なので英祖はとても可愛がったが、わずか9歳で病死してしまった。
以後、しばらくは英祖の子供が生まれなかった。
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「後継ぎが欲しい」
切に願った英祖に朗報がもたらされた。1735年に側室の映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏が英祖の二男を産んだのだ。それが荘献(チャンホン)である。後の思悼世子(サドセジャ)のことだ。
生まれつき聡明だった荘献は、10代前半から政治の一部を任されるようになっていった。ところが、才能がありすぎて、荘献は当時の主流派閥だった老論派を厳しく批判してしまった。
「あんな王が即位したら我々は排除される」
危機を感じた老論派は、荘献を追い落とそうとした。その目的をもって、英祖に荘献の悪評を意図的に伝えていった。暴力をふるったり、酒を飲んで暴れるという話を悪意をもって吹聴したわけだ。
心配した英祖は、荘献を呼んでは強く叱責するようになった。それが繰り返される中で、父子の間に確執が生まれた。
荘献は反省して、世子として承政院(スンジョンウォン/王命の出納を担当する役所)に反省文を出した。
当初は喜んだ英祖だが、猜疑心がとても強い性格だったので、次第に「反省文には心がこもっていない」と考えるようになった。
再び英祖に呼び出された荘献。弁明もできずに泣いてばかりいた。すると、英祖はさらに恐い顔で息子をにらみつけた。
そんな父親が怖くて、荘献は緊張しすぎて気を失ってしまった。さらに、駕籠(かご)に乗せられてぶざまに帰宅した。
この出来事が、英祖と荘献の仲を最悪にこじらせてしまった。
結局、荘献は英祖によって米びつに閉じ込められて餓死した。それは1762年の出来事であり、荘献は亡くなって思悼世子と呼ばれるようになった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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