粛宗の息子というと、2 人の王子がよく知られている。
1 人は張禧嬪(チャン・ヒビン)が産んだ世子(セジャ)で1688年に生まれている。もう1人はトンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)の息子のヨニングンで1694年に誕生している。
実は、粛宗には3 人目の息子がいた。
それが、側室の榠嬪・朴氏(ミョンビン・パクシ)が産んだ延齢君(ヨンニョングン)だ。彼は1699年に生まれている。
実は、粛宗が晩年になって特に溺愛したのが延齢君だった。
延齢君は頭脳明晰で、まれにみる孝行息子だった。老いていく粛宗にとっては、延齢君が一番頼もしく思えた。
しかし、彼は2 人の兄の弟だ。常識的に考えると、兄2 人をさしおいて王位を継ぐのは難しかったのだが、粛宗はあきらめなかった。
彼は側近を呼んで、延齢君に世子を交代させる意思を明らかにした。そのうえで、「今の世子(張禧嬪の息子)に代理聴政(政治を代行させること)をやらせて、揚げ足を取って廃位に追い込む」という方法を検討していた。
普通、国王が代理聴政を命令すれば、すべての臣下が一斉に反対するのが朝鮮王朝の慣例になっていた。
それにもかかわらず、粛宗の代理聴政の命令にほとんどの重臣たちが反対しなかった。根回しができていたのだ。
しかし、事情が変わってきた。粛宗の健康が急に悪化したので、簡単に世子を変えることができなくなった。
追い打ちをかけるように、衝撃的な悲劇があった。粛宗に一番愛されていた延齢君が1719年に20歳で急死してしまった。
粛宗のショックはあまりに大きかった。彼は落胆したまま1720年に59歳で世を去った。
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粛宗の死を受けて、予定どおり、世子が20代王・景宗(キョンジョン)として即位した。このとき、彼は32歳になっていた。
こうして、張禧嬪が「王の母」になったのだ。彼女は1701年に死罪になっていたが、19年後に念願を叶えたのである。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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