有名なイ・サンの息子だった23代王・純祖(スンジョ)。彼は、1827年に18歳だった長男に代理聴政(テリチョンジョン)を命じた。その長男とは孝明(ヒョミョン)世子のことだ。パク・ボゴムが『雲が描いた月明り』で演じた主人公イ・ヨンはこの孝明世子をモデルにしていた。
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当時の代理聴政には、2つの形があった。1つは、未成年の国王が即位したときに、王族の最長老の女性が政治を取り仕切る場合だ。朝鮮王朝では幼くして王位についた者が何人もおり、その際には必ずこの形がとられた。もう1つは、国王が病に倒れたときに世子が摂政を務める場合である。
しかし、純祖が病んでいたわけではない。むしろ、彼は長男の才能を誰よりも信じ、早くから政治の現場でその器を試させたいと願っていた。さらに、彼が孝明世子に政務を委ねた深い理由があった。
当時、純祖の正室・純元(スヌォン)王后の実家である安東(アンドン)金(キム)氏の一族が政権の中枢を握り、権勢を振るっていた。純祖はその専横を苦々しく思い、政界の空気を一新するため、孝明世子に白羽の矢を立てたのである。
その期待に応えるだけの器量を孝明世子が備えていた。彼は摂政として、民と国のために最善を尽くし、鋭い判断力をもって国政を動かした。
最初に手をつけたのは人事の刷新である。安東金氏の独占を抑えるため、彼は新たな人材を次々と登用した。それは大きな成果を挙げた。
孝明世子の統治は、短い期間ながらも鮮烈であった。刑罰を改め、民の苦しみを軽くし、未来へ続く改革の道を果敢に拓こうとしていた。その姿は、若き日の陽光のようにまぶしく、周囲の人に希望を抱かせた。
しかし1830年、わずか21歳でその命は尽きた。あまりにも早すぎる死であった。朝鮮王朝の未来に差し込んでいた光は、突然かき消され、時代は再び重い影に覆われてしまった。
もし孝明世子が長く生きたならば、朝鮮王朝の歴史は確実に違う色彩を帯びていたであろう。それだけに、とても残念であった。
文=大地 康
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