ジュノ(2PM)が主演したドラマ『赤い袖先』は、イ・セヨンが演じた宮女ソン・ドギムと朝鮮王朝・第22代王にして名君とされる正祖(チョンジョ)ことイ・サンとの愛が運命的に描かれた作品だったが、歴史的な史実にも十分に配慮された内容であった。
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特に感心したのが、世孫(セソン/国王の正式な後継者となる孫)から国王になっていく過程が時系列に応じて重厚に扱われていたことだ。
たとえば、世孫時代のイ・サンは反対勢力から「世孫は政治的に重要な問題を知らなくてもいい」と見下された部分があったのだが、その当時の出来事を『赤い袖先』は丁寧に説明していた。
また、朝鮮王朝・第21代王・英祖(ヨンジョ)が世孫に英才教育をして即位に導いた経緯、叔母の和緩(ファワン)翁主(オンジュ)との確執、王宮に奉職する宮女たちの人生などが丹念に描写されていて、『赤い袖先』は歴史エピソードをたくさん織り込んで作られていた。
その一方で、『赤い袖先』が描かなかった史実というものも存在する。
その最たる例が、イ・サンの正室であった孝懿(ヒョウィ)王后の扱いである。ドラマの中で彼女はほとんど登場していない。それゆえ、イ・サンは結婚しなかった、という印象を視聴者に与える部分もあったほどだ。
さらに、ソン・ドギムがイ・サンの承恩(宮女が国王と一夜を共にすること)を受けなかった理由を歴史的に取り上げることもしなかった。つまり、「承恩の拒否」はドラマにおいて自立した宮女の意志として説明されていたのだ。
しかし、実際の歴史はどうであったのか。わかりやすく言えば、ソン・ドギムが承恩を受けなかったのは、ひとえに孝懿王后を気遣っていたからである。
その背景について解説してみよう。
孝懿王后は1753年に生まれた。ソン・ドギムと同じ歳であった。
彼女は9歳のとき、世孫であったイ・サンの妻となり、彼の即位にともなって1776年に23歳で王妃となった。大変な人格者であり、王宮の中でとても評判が良かった。それだけに、多くの人に慕われたが、とりわけソン・ドギムは孝懿王后を心から尊敬していた。
しかし、孝懿王后はイ・サンとの間で子供を産むことができなかった。そのことをソン・ドギムもかなり気にしていて、彼女が承恩を二度にわたって拒否したのも、「孝懿王后に子供がいないのに私が国王に寄り添うことはできない」という理由であった。
宮女の立場として国王の承恩を受けないと死罪を覚悟しなければならないのだが、そこまでソン・ドギムが思い詰めたのは、子供がいない孝懿王后に徹底的に配慮したからであった。
そこまで、ソン・ドギムは歴史的に孝懿王后に尽くした女性であったのだが、そのあたりは『赤い袖先』では描かれていなかった。
逆に言えば、もし孝懿王后の存在が『赤い袖先』のストーリーに絡んでいたら、「国王をめぐる三角関係」が重要なテーマにならざるをえなかっただろう。
しかし、『赤い袖先』はあくまでもイ・サンと自立した宮女との究極的な愛を描くドラマであり、制作側も「三角関係」は本意ではなかったはずだ。
それゆえ、『赤い袖先』は歴史的な題材を巧みに選んでイ・サンとソン・ドギムの人生を集中的に描いていく方向性を持っていたと思われる。
その意図は十分に成功していた。『赤い袖先』は「史上最高の時代劇」という高い評価を受けるようになり、名君と宮女の運命的な愛が最後まで純粋に描かれたことで、多くの視聴者の圧倒的な感動を呼んだのである。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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