【韓ドラになった歴史人】『トンイ』の19代王・粛宗はどんな国王だったのか

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朝鮮王朝第19代王・粛宗(スクチョン)といえば、『トンイ』ではチ・ジニ、『テバク~運命の瞬間(とき)~』ではチェ・ミンス、『ヘチ 王座への道』ではキム・ガプスが演じていた国王だ。

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粛宗(スクチョン)は、1674年にわずか13歳で19代王となったが、当時は激しい党争が繰り広げられており、粛宗は国王としての立場を守るために党争に深入りせず静観する姿勢をとった。

しかし、成人すると、王権を強化し、対立する派閥を牽制しながら独自の政治を展開していった。粛宗は特に経済政策において商業を奨励し、貨幣鋳造事業を推進するなど、民生の向上に努めた名君としての側面を持つ。

その一方で、粛宗は女性関係では度々問題を起こしていた。彼には合計で4人の正妻がいたが、特に歴史に名を残したのが張禧嬪(チャン・ヒビン)である。

張禧嬪はもともと宮中に仕える女官であったが、その美貌に一目ぼれした粛宗の寵愛を受け、彼の側室に昇格した。しかし、粛宗の母・明聖(ミョンソン)王后は彼女を危険視し、宮廷から追放する。

その後、明聖王后の死後に正妻の仁顕(イニョン)王后が彼女を王宮に呼び戻したものの、張禧嬪は粛宗の寵愛を一身に受け、わがままに振る舞うようになった。

『トンイ』の粛宗
『トンイ』ではチ・ジニが粛宗を演じた

女性問題を度々起こした国王

1688年、張禧嬪が粛宗の息子を出産すると、彼女の影響力はさらに増し、粛宗は仁顕王后を廃妃にするという驚きの決断を下す。

多くの反対意見を無視し、空席となった王妃の座に張禧嬪を据えたことで、彼女は身分の低い女官から王妃という最高位に上り詰めたのである。しかし、粛宗の愛情はやがて冷め、張禧嬪の栄華も徐々に崩れていく。

そこに宮中に現れたのが『トンイ』の主人公として知られる淑嬪・崔氏(スクビン・チェシ)である。彼女は粛宗の新たな寵愛を受け、1694年には仁顕王后が再び王妃の座に復帰し、張禧嬪は側室に降格される。

張禧嬪はなおも「息子が王になれば自分の地位も戻る」と希望を抱いていたが、淑嬪・崔氏が粛宗との間に新たな子を産んだことで状況は一変する。

1701年に再び王妃となった仁顕王后が病に倒れ、子供を残すことなく世を去る。悲しみに暮れる粛宗のもとに、淑嬪・崔氏が張禧嬪の呪詛(じゅそ)を行なっていたことを話した。

調べてみると、仁顕王后が住んでいた宮殿の周囲から呪いの人形や小動物の死骸が発見された。仁顕王后が亡くなった原因がその呪いによるものなのかどうかは定かではないが、それを聞いた粛宗は激怒して、張禧嬪に死罪を言い渡す。

世子の母親を死罪にすることに対して、臣下たちは反対したが、粛宗は自身の考えを変えなかった。

自ら毒を飲む羽目になった張禧嬪は、「死ぬ前に息子に一目会いたい」と願い、粛宗もその面会を許した。

その場にいた誰もが感動的な親子の対面を想像したと思うが、なんと張禧嬪は自分の子の下腹部の辺りを思いっきり握って失神させてしまう。最後の親子の面会にしてはかなり衝撃的なことだった。

彼女は「朝鮮王朝三大悪女」の1人として語り継がれているが、その裏には粛宗の寵愛と宮廷の権力争いに翻弄された哀れな女性だった。

そして、粛宗自身も、政治的な手腕を発揮しながらも女性関係を通じて宮廷に多くの混乱をもたらした国王だった。

彼は1720年、59歳で世を去るが、朝鮮王朝27人の中でも特に女性問題が多かった国王といえるだろう。

【粛宗の人物データ】

生没年
1661年~1720年

主な登場作品()内は演じている俳優
『トンイ』(チ・ジニ)
『テバク~運命の瞬間(とき)~』(チェ・ミンス)
『ヘチ 王座への道』(キム・ガプス)

文=大地 康

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