『トンイ』張禧嬪も…朝鮮王朝の「死罪」はどれだけ残酷だったのか

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「賜薬(サヤク)」という言葉をご存じだろうか。

これは、毒薬によって自決させられる死罪のこと。対象は王族や高官や側室で、王が毒薬を下賜するという意味で「賜薬」と呼ばれている。

毒薬の中身は、砒素や水銀などとなっている。韓国時代劇を見ていると、賜薬を呑まされた人がその場ですぐ死ぬが、決して即効性のある毒薬ではなく、実際に息が絶えるまでには数時間もかかったという。

その間に苦しみ抜くので、むごい刑罰であった。中には、一晩ずっと死ぬことができずに苦しんだ、という記録も残っている。

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普通は、罪人の流刑地に賜薬を届けて死刑に処すが、ときには罪人が流刑地に向かう途中で止まらせて、無理に賜薬を呑ませることもあった。

朝鮮王朝時代は高官同士による権力闘争がずっと続いたが、党争が特に激しい時期には多くの人が賜薬で死罪になっている。

あるいは、王妃や側室が死罪になることもあった。その中で、特に有名だったのが張禧嬪(チャン・ヒビン)だった。

ドラマ『トンイ』より

彼女は王の寵愛を受けて王妃にまでなったのだが、その寵愛を失えば結果は見えていた。ちょうど政変が起きて、張禧嬪の後ろ楯となっていた高官たちが力を失うと、張禧嬪の立場はとたんに弱くなった。

1701年、王妃に復帰した仁顕(イニョン)王后が亡くなると、張禧嬪が神堂を建て、仁顕王后の死を願って特別な祈祷を続けていたことが告発された。

つまり、呪詛(じゅそ)をしていたというわけだ。

粛宗の怒りは尋常ではなかった。「大罪である。賜薬を与えよ」

この王命には高官たちが反対した。すでに張禧嬪が産んだ粛宗の長男が世子に決まっていたからだ。

将来王になる男の母が死罪となれば、後々に禍根を残す可能性が高かった。翻意を求められた粛宗ではあったが、最終的に賜薬を取り消さなかった。

こうして張禧嬪は42歳で死罪となった。彼女も賜薬で命を落としたのだ。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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