嫉妬に淫行など「7つの掟」を破れば追放になった王妃たち

このエントリーをはてなブックマークに追加

朝鮮王朝時代の王妃たちは女官たちの長としての務めも担っていた。では、どんなことをしていたのだろうか。

代表的な務めとしては、民に養蚕を奨励するために、宮女たちを引き連れて、率先して機織を行なった。これを新蚕礼と言う。さらに、王の側室やある程度の品階にある女官を集め、「内宴」という女性だけの宴会を開き、礼儀作法の指導を行なった。

【関連】朝鮮王朝の秘められた情事…真剣勝負だった王と女性たちの“夜の営み”

写真はイメージです(写真=SPORTS KOREA)

日常的には、朝、昼、晩に王へご機嫌伺いを行ないながら、王室内部を見まわり、女官たちの行動に目を光らせていた。

男尊女卑の朝鮮王朝では、妻には破ってはならない“七去之悪(チルコジアク)”という厳粛な戒律があった。

七去之悪は、「嫉妬深い」「病気になる」「淫行をする」「子供を生まない」「言動で失敗する」「盗みを働く」「舅や姑に逆らう」の7つであり、どれか1つでも該当すれば、夫は妻を追い出すことができた。

これは、“国母”である王妃とて例外ではなかった。実際に、長い歴史の中では、嫉妬心から王妃の座を追われた女性もいる。

王にたくさんの側室がいても、王妃は決して嫉妬する素振りをみせてはならなかったのだ。

王妃に昇格するのは世子が王になるとき

どんなに苦境に立たされても、王妃に求められるのは、王の決定に従うことだけだった。

王室の女性は、日常生活でチョゴリ(上着)とチマ(スカート)の上に、唐衣(タンイ)という上着を重ねて着ていた。

この唐衣は儀礼服の一種である。一番格式の高い翟衣(チョグィ)を大礼服と言うのに対し、唐衣は小礼服と呼ばれていた。

王室の女性が普段着になぜ儀礼服を着ていたのかと言えば、彼女たちは毎日、王や大妃に挨拶する必要があったからだ。

唐衣は両班の女性も着用したが、王室の女性が着ている唐衣にあしらわれた金の模様を使うことは禁じられていた。また、王妃以外に赤紫色のチマを履くことも禁じられていて、王室の女性は紅色のチマを着用していた。

理想的な王妃の生涯は、世子嬪に選ばれて、世子が王になるときに王妃に昇格。さらに、次代の王を産んで、王の母=大后となることである。

しかし、この通りの人生を歩んだ王妃は、歴代42人中たった1人。それは18代王・顕宗(ヒョンジョン)の正室だった明聖(ミョンソン)王后である。

彼女は1642年に両班の家系に生まれ、1651年に9歳で当時10歳だった顕宗の世子嬪に選ばれた。

世子嬪になっても、周囲の評判が悪いと追放される恐れがあるが、明聖王后は1659年、顕宗が18代王として即位すると同時に王妃に昇格。そして、念願の嫡男を出産した。

王妃としての立場を盤石にした彼女だが、顕宗の母である大妃が存命のうちは、謙虚に過ごした。

1674年、大妃と顕宗がたて続けになくなり、13歳の嫡男が19代王・粛宗(スクチョン)となった。

32歳の若さで大妃となった明聖王后は、粛宗が成人するまでの間、代理で政治を行なった。まさに、エリート王妃と言えるだろう。

王妃の宮廷での生活。朝鮮王朝時代に存在した42人の王妃がどれだけ苦労してきたかがわかる。王妃の生活もかなり奥が深いと言えるだろう。

構成=大地 康

【関連】『トンイ』のすべてがここに!! 歴史解説から俳優情報、豆知識まで毎日更新!!

【関連】チャングムら朝鮮王朝の宮女たちの暮らしぶりとその一生とは?

【写真】『チャングム』主演イ・ヨンエのその後と現在。あの人は今…

前へ

1 / 1

次へ

関連記事


RANKINGアクセスランキング

写真


注目記事