朝鮮王朝において国王は頂点に位置する絶対的な権力者であった。しかし、国王という立場が必ずしも強い力を示すものであったのか。朝鮮王朝でその存在感を問い続けることが重要である。
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確かに偉大に君臨して絶大な権力を誇示した国王たちは存在したが、意外と弱々しい存在であった国王も歴史の舞台には姿を見せているのだ。その一人が23代王の純祖(スンジョ)である。彼は、ドラマ『イ・サン』に描かれた22代王イ・サン(正祖〔チョンジョ〕)の側室から生まれた人である。
純祖は、国王の称号を冠しながらも、能力に欠け、つまるところ弱い君主であった。王妃は純元(スヌォン)王后で、安東(アンドン)・金(キム)氏の出身であった彼女の実家一族が政治を牛耳っていたと言える。
こうした国王の外戚が実権を握ることは「勢道(セド)政治」と称され、その中でも安東・金氏は最もその策を行使した一族とされる。この背景の中で、純祖は力を持つことなく情けない有様だった。
しかし、彼は精一杯に奮起し、安東・金氏の専横を抑えるために、彼の10歳の長男である孝明(ヒョミョン)世子の妻に豊壌(プンヤン)・趙(チョ)氏の娘を迎えた。豊壌・趙氏の一族を重用し、安東・金氏に抵抗する力を蓄積させる意図があったのである。
孝明世子の頼もしい成長に伴い、豊壌・趙氏の影響力が安東・金氏を凌駕するようになったが、状況は一変する。それは、孝明世子が1830年、わずか21歳でこの世を去ってしまったことだ。この孝明世子は、ドラマ『雲が描いた月明り』でパク・ボゴムが演じた世子イ・ヨンのモデルとなった人物である。
純祖は有望な息子に先立たれ、深い絶望に陥った。さらに、後ろ盾を失った豊壌・趙氏の勢力も衰え、安東・金氏が再び全面的に権力を握る状況となった。結果として、失意に打ちひしがれた純祖は1834年、44歳で亡くなった。
確かに在位期間は34年と長かったのだが、国王の実績では父である名君イ・サンの輝きには全く及ばなかった。
文=大地 康
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