【まさかの鬼母?】英祖が愛した側室はなぜ息子の思悼世子を餓死に追い込んだのか

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21代王・英祖(ヨンジョ)の正室は貞聖(チョンソン)王后だった。二人の間に子供はいなかった。英祖の最初の息子は、側室の靖嬪・李氏(チョンビン・イシ)が産んだ孝章(ヒョジャン/1719年生まれ)である。しかし、この長男はわずか9歳で病死してしまった。

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その後は側室との間にも息子が生まれず、国王の後継者がまったくいないという状況が長く続いた。英祖がどれほど気にかけていたことだろうか。それだけに、1735年に側室の映嬪・李氏(ヨンビン・イシ)が荘献(チャンホン)を産んだときは、英祖もとても喜んだ。

しかし、荘献が27歳のときに素行の悪さを指摘されて英祖が激怒した。

「過ちを改めて今後は正しく生きますので、どうか許してください」

荘献は何度も哀願した。しかし、英祖は驚くべきことを話し始めた。

「映嬪が余になんと言ったと思う? そなたがいかに世子にふさわしくないかを泣きながら訴えてきたのだ。もはやこれまでだ。そなたが自決しないかぎり、この国は安泰とならない」

この言葉を聞いた誰もが信じられない思いだった。

<生母の映嬪・李氏が、こともあろうに息子の世子失格を訴えてくるとは……>

『赤い袖先』の英祖
『赤い袖先』では英祖をイ・ドクファが演じていた(NBCユニバーサル・エンターテイメント/©2021MBC)

息子が不利になることを告発した女性

高官たちも映嬪・李氏の真意をはかりかねたが、英祖の怒りは収まらず、彼はついに荘献を米びつに閉じ込めて餓死させてしまった。このとき、荘献の生母の言葉が英祖に大きな影響を与えていたことは間違いない。

亡くなった荘献に対して、英祖は「思悼世子(サドセジャ)」という諡(おくりな/死後の尊称)を贈っている。その思悼世子を告発して「米びつ餓死事件」にも関わった英嬪・李氏はその後どうなっただろうか。

 彼女は思悼世子の死から2年後の1764年に亡くなっている。そのときの英祖の悲しみはあまりに大きかった。彼は英嬪・李氏の葬儀に際して、「側室の中でも第一等の礼にのっとって行なえ」と命じている。まさに特別待遇だった。

朝鮮王朝の歴史を記した『朝鮮王朝実録』でも英嬪・李氏について「側室として40余年間務め、慎み深く沈黙を守り、不幸なことにも適切に対処し、功労が多かった」と記している。そんな女性がなぜ息子の不利になることを告発したのだろうか。それは、永遠の謎になっている。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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