ドラマ『朱蒙』で描かれた高句麗(コグリョ)の初代王・朱蒙(チュモン)。歴史的にも古代の英雄として知られている。歴史書『三国史記』には、朱蒙に関して興味深い記述がある。それは、百済(ペクチェ)の建国にも関係していることだ。その内容は、以下のようになっている。
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紀元前19年、1人の若者が朱蒙のもとを訪れた。若者は瑠璃(ユリ)と名乗った。彼の瞳には遠い旅路の疲れと、長年の思慕が宿っていた。驚くべきことに、彼は朱蒙の実の息子であった。朱蒙が若い時に生まれ、長きにわたり父を知らぬまま育ってきた。
朱蒙はこの運命的な出会いに深い喜びを感じた。同時に、小さな不安も忍び寄っていた。というのも、朱蒙にはすでに沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)という2人の息子がいたのである。瑠璃が加わったことで、朱蒙の直系の子は3人となり、王位継承を巡る緊張が避けられなくなった。
悩んだ末に、朱蒙は瑠璃を皇太子に指名した。この決断は、沸流と温祚の運命を大きく変えることになった。2人は10名の忠義なる家臣とともに高句麗を離れ、新たな土地を求めて南へと旅立った。旅の道中、多くの農民たちが、自ら進んで彼らの後を追った。
一行はついに海辺にたどり着いた。沸流はその地に心を寄せ、そこに腰を落ち着けようとした。しかし家臣たちは「もっと実り豊かな土地があるはずです」と諫めた。それでも沸流は聞き入れず、海辺を拠点に暮らし始めた。その場所が、今の仁川(インチョン)周辺である。
一方、温祚は川と山に囲まれた慰礼城(ウィレソン/現在のソウル郊外)に心を奪われた。彼はそこに都を築き、国号を「十済(シプチェ)」と定めた。それが紀元前18年であり、自然の恩恵に満ちた慰礼城はやがて豊かに発展し、十済は民に愛される国家へと成長していった。
だが、沸流は不毛な土地に苦しみ、次第に心を疲弊させていき、悔恨のうちにその生涯を閉じた。沸流に従っていた民たちは後に温祚のもとに合流し、十済は大きな国家へと変貌を遂げた。そして、国号を百済(ペクチェ)に変えた。
このようにして百済は、その本質において高句麗と同根であり、兄弟国としての絆を持って歴史に名を刻むこととなった。そのことは明確に『三国史記』に記されている。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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