史実で読み解く『トンイ』㉓張禧嬪が死罪になった後の宮廷はどれほど揉めたのか

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傑作時代劇『トンイ』もいよいよ終盤を迎え、王宮の権力闘争が激しくなっていった。

1701年、仁顕(イニョン)王后(演者パク・ハソン)が病に倒れ、呪詛(じゅそ)した罪で張禧嬪(チャン・ヒビン/演者イ・ソヨン)も死罪となった。冷たい風が吹き抜ける秋の日、希代の悪女は静かに散ったのである。

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張禧嬪の失脚は、南人(ナミン)派にとって致命的な打撃だった。彼女を支えていた南人派は一掃され、かつての栄光を完全に失った。

権力の座には西人(ソイン)派が就いたが、その内部でもまた、意見の違いという火種がくすぶり始めていた。その火はやがて燃え広がり、派閥は老論(ノロン)派と少論(ソロン)派に分裂してしまった。

そんな混沌の中で、粛宗(スクチョン/演者チ・ジニ)は新しい王妃として仁元(イヌォン)王后(演者オ・ヨンソ)を迎えた。

『トンイ』
『トンイ』ではチ・ジニが粛宗を演じた

少論派と老論派の激しい衝突

トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ/演者ハン・ヒョジュ)は王の深い愛情を受けながらも、身分の低さゆえに王妃の座には届かなかった。だが、彼女の誠実な心と聡明さは、宮廷の誰よりも眩しく輝いていた。

粛宗は当初、少論派を信頼していたが、次第に老論派を重用するようになっていく。その流れの中で、淑嬪・崔氏の息子である延礽君(ヨニングン)を支持する声が高まっていった。老論派の高官たちは、母子に温かな眼差しを向けていたのだ。

しかし、その温もりの影では冷たい策略も生じていた。老論派は世子の病弱さと後継者の不在を理由に、延礽君を正統な後継として推す動きを強めた。実際、世子は成人しても子がなく、王家の血脈が途絶える危険が迫っていた。

王政の未来を案じた粛宗は、ついに延礽君に代理聴政(摂政)を命じようと決意する。彼の胸には、王朝の行方への切実な不安が渦巻いていたのだ。だが、その決断は新たな嵐を呼んだ。少論派は世子を守ろうとし、老論派と激しく衝突した。派閥の対立は日ごとに深まり、宮廷はまるで火花散る戦場のようになってしまった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン) 

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