1720年に19代王の粛宗(スクチョン)が亡くなった。すぐに、張禧嬪(チャン・ヒビン)が産んだ景宗(キョンジョン)が20代王として即位した。このとき、景宗は32歳だった。
彼の異母弟は、トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)が産んだ英祖(ヨンジョ)である。この英祖は、第1位の王位継承権を得た。景宗に子供がいなかったからだ。つまり、景宗が世を去れば、英祖が王に繰り上がることになっていた。
即位から4年後のことだ。景宗の体調が悪化したのは1724年8月20日だった。
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彼は胸と腹に激しい痛みを感じ、医官の診察を受けた。当初はケジャン(蟹を醤油漬けにした料理)と柿を一緒に食べた組み合わせによって食あたりを起こしたと思われた。
安静にしていた景宗だが、腹痛と下痢がひどくなり、身体が衰弱した。
8月24日に深刻な病状となり、25日に亡くなった。
死の直接の原因となったのは“ケジャンと柿の食べ合わせ”とされた。
しかし、噂が飛び交った。「景宗に出されたケジャンに毒が入っていたのではないか」という話が王宮の中で広まったのだ。
渦中の人物が英祖だった。彼は景宗が亡くなって21代王に即位したが、疑惑の目で見られた。
それには理由がある。医官たちはケジャンと柿を景宗の食卓に出すことを反対したのだが、英祖が無理に景宗に食べさせたという事実があったからだ。
さらに、景宗の病状が深刻になったときに治療法をめぐって英祖が医官たちと再び対立していたという経緯もあった。その際に、英祖は人参の煎じ薬を処方することを強行した。その後に景宗が亡くなっていた。
英祖はかねてから医官たちの意見に耳を貸さなかった。それだけに、疑われても仕方がなかったのだ。
本当に、英祖は兄の景宗を毒殺したのだろうか。
景宗が亡くなれば英祖が王になれるだけに、英祖には動機があった。
果たして、英祖はどういうつもりで医官たちの反対を押し切って結果的に景宗を死に至らしめたのか。
未だに謎だが、英祖が意図的に景宗を死なせた疑惑は残ったままだ。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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