【トンイの真実】歴史書が記されたチャン・ヒビンの息子・景宗の人柄と悲運

このエントリーをはてなブックマークに追加

韓流プレミアで放送中の韓国時代劇『トンイ』に登場する「朝鮮王朝三大悪女」の1である張禧嬪(チャン・ヒビン)。彼女が粛宗(スクチョン)との間に設けた息子が、のちに第20代王・景宗(キョンジョン)となる。

景宗はどんな王だったのか。

1720年6月8日に19代王の粛宗が亡くなった。このとき、粛宗と張禧嬪との間に1688年に生まれた王子が世子(セジャ/王の正式な後継者)になっていた。彼が、20代王・景宗(キョンジョン)として即位した。

景宗が即位した当時、2大派閥が党争を繰り返していた。

景宗を支持していたのは少論派で、淑嬪・崔(スクピン・チェ)氏が産んだ粛宗の二男を支えていたのが老論派だった(淑嬪・崔氏は時代劇『トンイ』の主人公になっていた女性だ)。

【関連】【トンイの真実】年表でわかる史実と創作のズレ。トンイも実は…

その二男は景宗にとって6歳違いの異母弟だった。

景宗はその弟をよく可愛がった。

二男は少論派によって何度も追放されそうになったが、その度に景宗が救った。二男にしてみれば、景宗は本当に頼もしい兄だった。

しかし、景宗は長く王位を守ることができなかった。1724年8月25日に急死してしまったからだ。

その日の夜には流星が見られたと「朝鮮王朝実録」は記している。

人柄のいい王だった景宗

さらに、「朝鮮王朝実録」は景宗の人柄について次のように説明している。

「殿下は天性と言えるほど慈しみにあふれ、人徳があった。幼い頃から学問に励み、物欲のない方だった。人々は神聖にして徳があると讃えた」

「朝鮮王朝実録」が記した景宗の説明がさらに続いている。

「憂いが積もって病を得て、それがつらくなるにつれて国を治めることに専念できず、御前会議でも一貫して沈黙し、政治を臣下たちにまかせた。それでも、お亡くなりになられた日には臣下や民衆の間で嘆き悲しまない人がいないほどであった。誰もが哀悼し、慕い、敬っていたのだ」

書籍『心の病を患った景宗』の書影

このように「朝鮮王朝実録」が記すほど、景宗は人格がとても良かった。

結局、景宗には子供がいなかったので、次の王位は異母弟が継いだ。それが21代王の英祖(ヨンジョ)である。

張禧嬪の息子であった景宗と、淑嬪・崔氏が産んだ英祖……。

母親同士は宿命のライバルであったが、そういう確執を乗り越えて、英祖は異母兄の景宗のおかげで国王になることができたのだ。

景宗は在位期間は短く、短命な王だった。もし、彼が長く王として即位していたならば、朝鮮王朝はどうなっていたのだろうか。

文=大地 康

【関連】トンイとチャン・ヒビンが産んだ息子たちの運命はどうなったのか

【関連】【トンイの真実】美化されたドラマ。本当は恐ろしかったトンイの「裏の顔」

【関連】トンイの息子・延礽君(ヨニングン)はどんな王になるのか

前へ

1 / 1

次へ

関連記事


RANKINGアクセスランキング

写真


注目記事