張希載(チャン・ヒジェ)は、時代劇『トンイ』でキム・ユソクが演じている人物だ。彼の名は、栄華と陰謀の渦に翻弄された数奇な人生を象徴するものであるが、どんな人生を歩んだのだろうか。
【関連】『トンイ』で張禧嬪の狡猾な兄を演じたキム・ユソクのその後
張希載は、1651年に一族の希望を背負うかのようにこの世に生を受けた。妹の張禧嬪(チャン・ヒビン)が初めて王宮に女官として足を踏み入れたのは1680年頃のことであった。
その後、彼女が粛宗(スクチョン)の寵愛を一身に集め、ついに王妃の座へと昇り詰めたのは1689年という劇的な年であった。妹の華やかな出世は、兄である張希載の運命をも大きく変えることになった。
本来、王朝において高官となるには科挙という厳格な試験に合格しなければならなかった。しかし、張希載はその門を通らずとも、妹の後光を受けて急速に昇進を遂げていった。
これは正統を重んじる士大夫にとっては耐えがたいものであり、彼の存在はすぐさま政治的緊張を呼び起こした。
当時の朝鮮王朝は、妹・張禧嬪を支える南人(ナミン)派と、その勢力を阻もうとする西人(ソイン)派とが鋭く対立していた。
張希載は南人派の一翼を担い、権力を維持するために陰謀を巡らせたと囁かれており、そのため西人派の憎悪を一身に浴びる存在となった。
しかし、運命の風向きは変わりやすい。粛宗がやがて淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)をより深く愛するようになると、西人派は王宮内で勢いを増した。
そしてついに1694年3月、下級官僚・金寅(キム・イン)が「淑嬪・崔氏を毒殺しようとする悪事が露見しました」と告発状を提出したのである。この衝撃的な訴えは宮中を震撼させ、嵐のような混乱を巻き起こした。
粛宗は直ちに「張希載を処罰せよ」と命じた。しかし、西人派内部でも意見は割れ、「処刑すべし」とする強硬派と「流罪で十分」とする穏健派とに分かれた。この分裂こそが後の老論(ノロン)派と少論(ソロン)派の分岐点となったのである。
政治の駆け引きに長けた粛宗は、この騒動を巧みに利用した。妹を擁護する南人派が勢力を伸ばしすぎれば、王権そのものが脅かされかねない。
そこで彼は“毒殺未遂事件の責任追及”という名目で南人派を抑え込み、その象徴として張希載を済州島(チェジュド)へ流罪に処した。証拠が乏しいにもかかわらず、国王の権威のもとで断罪されたのである。
妹・張禧嬪が粛宗の愛を失ったことは、兄の命運も奪った。1701年、張禧嬪が死罪に処されたとき、張希載もまた処刑された。
権力の頂を極めた妹と運命を共にし、その没落まで歩みを同じくしたのである。栄華の光は一瞬にして闇へと転じ、彼は悪名とともに歴史の闇に消え去った。
張希載の生涯は、権力の栄光と危うさ、そして人間の欲望が織りなす悲劇を如実に物語っている。彼の運命は、王朝史に刻まれた鮮烈な警鐘であり、権力に翻弄された者の儚さを今に伝えているのである。
【張希載(チャン・ヒジェ)の人物データ】
生没年
1651年~1701年
主な登場作品()内は演じている俳優
『トンイ』(キム・ユソク)
文=大地 康
■【関連】『トンイ』で悪役を演じたイ・ソヨンは厳しい芸能界をどう生きてきたか
前へ
次へ