【トンイの真実】年表でわかる史実と創作のズレ。トンイの最初の子供も実は…

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ドラマ『トンイ』は歴史上の人物をたくさん登場させており、一応は史実にあった出来事が物語に組み込まれている。

しかし、その出来事が起こった年に関しては創作される場合が多い。つまり、『トンイ』だけを見ていると、年表にズレが起きることがしばしばある。

物語の創作の都合で年代を入れ替えてしまうのだろうが、歴史的に言えば事件が起こった年代というのは、順番通りに記憶しておいたほうがいい。そこで、重要な事件を整理してみよう。

【写真】『トンイ』の嫌われ役イ・ソヨン、ハン・ヒョジュとの“深い縁”

『トンイ』で共演したハン・ヒョジュとイ・ソヨン(写真=SPORTS KOREA)

1680年、チャン・ヒビンが王宮で女官となる。
1686年、チャン・ヒビンが粛宗(スクチョン)の側室となる。
1688年、チャン・ヒビンが粛宗の長男を出産する。
1689年、仁顕(イニョン)王后が廃妃(ペビ)となり、チャン・ヒビンが王妃に昇格する。

以上のように、チャン・ヒビンが王妃になるまでを年代順に整理してみたが、トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)が王宮に入ってきたのは、チャン・ヒビンが王妃になった以降である。

つまり、チャン・ヒビンが王妃になるまでのトンイの動きというのはすべてフィクションということになる。

実際、淑嬪・崔氏が王宮に入ったのは1689年以降で、はっきりとした年は記録されていない。

とはいえ、淑嬪・崔氏が粛宗との間に最初の子供を産んだ年は記録されている。それが1693年の秋だった。

この時点では、まだチャン・ヒビンは王妃だった。しかし、淑嬪・崔氏の子供は永寿(ヨンス)と名付けられた割には生命力が弱く、2カ月あまりで早死にしてしまった。淑嬪・崔氏の嘆きは尋常ではなかった。

半年後の1694年にチャン・ヒビンは側室に降格して、仁顕王后が王妃に復帰した。その半年後に淑嬪・崔氏は粛宗との間に二番目の息子を出産した。それが後の英祖(ヨンジョ)であった。

以上が歴史的な事実である。『トンイ』では、淑嬪・崔氏が最初の子供を産んだのはチャン・ヒビンが側室に降格した後になっているが、その描き方は史実とは違っている。

このように、『トンイ』では重要な出来事の順番が逆になることがよくある。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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