『王になった男』光海君=クァンヘグンが「暴君」と呼ばれてきた理由

このエントリーをはてなブックマークに追加

映画『王になった男』の主人公である朝鮮王朝第15代王・光海君(クァンへグン)は、韓国の歴史において長きに渡って“暴君”に分類されてきた。

なぜ、光海君は暴君とされているのか。それを知るためには、まず、彼の生い立ちから知らなければならない。

1575年に第14代王・宣祖(ソンジョ)の庶子(側室の子)として生まれた光海君、幼き頃から聡明だった。

1592年に豊臣秀吉軍が朝鮮に出兵した“壬辰倭乱(イムジンウェラン)”が起きた際には、王宮を離れて地方に避難した宣祖に代わって政事にあたり、義兵たちを支援して豊臣軍に対抗。宣祖もその功績を認め、戦時中に世子に冊封されている。

だが、中国の明は光海君が庶子であることを理由に世子冊封を認めなかったため、なかなか王位につけなった。

しかも、1602年には父・宣祖が側室だった仁穆王后(インモクワンフ)を正室に迎え、その仁穆王后が1606年に宣祖の嫡男(正妻の男子)・永昌大君(ヨンチャンテグン)を生む。

これにより、宮廷内は王位継承を巡って党派閥が対立。光海君を推す大北派(テプクパ)と永昌大君を推す小北派(ソプクパ)の対立が激しさを増す中、1608年に宣祖が亡くなり、年齢と実績に勝った光海君が即位することになるが、光海君の王位は磐石ではなかった。

その焦りからか、光海君とその支持基盤である大北派は、反対勢力を徹底粛清する。

光海君反対勢力だった西人派が支持する実兄の臨海君(イムヘグン)を流刑に処し、異母弟の永昌大君を宮中から追放して謀殺。永昌大君の母である仁穆王后も幽閉してしまったのだ。

映画『王になった男』ではイ・ビョンホンが光海君を演じた。
(写真=2012 CJ E&M CORPORATION ALL RIGHTS RESERVED)

そんな容赦ないやり方に西人派も猛反発。光海君の甥でのちの第16代王・仁祖(インジョ)となる綾陽君(ヌンヤングン)(光海君の甥)を担いで“仁祖反正”と呼ばれるクーデターを起こす。

“仁祖反正”の大義名分は、光海君が中国・明に対する義理を捨て、兄弟を殺害し継母を幽閉するなど、儒教の教えに反しているもというものだった。

このクーデターによって、光海君は1623年に失脚して江華島(カンファド)、済州島(チェ ジュド)へと追放。

そして1641年、66歳でこの世を去った。兄弟までも殺して王位にこだわった暴君として廃位したため、廟号(先祖を祀るため墓に載せる名前)も与えられなかった。

これが光海君が歴史上で“暴君”と呼ばれる理由なのだ。

だが、その業績を冷静に見直すと、光海君のもうひとつの顔が見えてくる。それについては次回に触れたい。

文=慎 武宏

【関連】毎日更新!!出演俳優から歴史解説、見どころまで!!『王になった男』スペシャル

【関連】天才子役から『王になった男』の主役!!ヨ・ジングは恐ろしい俳優だ!

【関連】『王になった男』で王妃役イ・セヨン、実にはチャングムの天才子役だった!!

前へ

1 / 1

次へ

関連記事


RANKINGアクセスランキング

写真


注目記事