朝鮮王朝の15代王・光海君(クァンヘグン)の父親であった宣祖(ソンジョ)は、とても子供が多い国王であった。
彼の最初の正室には子供がいなかったし、二番目の正室は一男一女だけを産んだ。しかし、宣祖の側室が産んだ子供はとても多かった。合計すると、6人の側室が23人の子供を産んでいる。内訳は、王子が13人であり、王女が10人であった。
この中で、光海君は二男であった。また、定遠君(チョンウォングン)は五男であった。
この兄弟関係は非常に重要である。
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なぜなら、1623年にクーデターを成功させて光海君を廃位に追い込んだ仁祖(インジョ)は、定遠君の息子であったからだ。
つまり、光海君と仁祖は「伯父と甥」の関係であった。
とはいえ、血を分けた異母兄弟同士であった光海君と定遠君は間柄が複雑だった。
なにしろ、光海君は定遠君の実兄であった信城君(シンソングン)が宣祖に寵愛されていたことを常に警戒していた。結果的に、信城君は18歳で早世したために、光海君は世子となって国王の座を得ることができたのだが、もし信城君が早死にしなければ国王になる可能性がとても高かった。それほど宣祖は信城君に目をかけていた。
こうした理由から、光海君は1608年に即位したあとも、信城君の兄弟たちのことを常に警戒していた。その1人が定遠君であった。
その中で1615年に光海君を廃して新しい王を誕生させようとする政変が置き、その首謀者の1人として定遠君の息子であった綾昌君(ヌンチャングン)が死罪に処されている。
そして、仁祖は殺された綾昌君の実兄だったのである。
歴史的に言うと仁祖は「光海君の政治が不正にまみれて邪悪だったのでクーデターで倒した」という大義名分を掲げた。しかし、これは事実とは言い難い。なぜなら、光海君は外交政策で成果を挙げ、庶民の減税につながる大同法を成功させようとしていた。どの時代と比べても、光海君の統治はうまくいっていた。
それでも、仁祖は武力を背景にして光海君を無理やり廃位に追い込んだ。
その原動力となったのは私憤であった。弟を殺された恨みから仁祖は光海君を王宮から追放したのであった。
その結果、仁祖は自ら王になり、失政を繰り返した。こうして彼の私憤は王朝を存亡の危機に立たせたのであった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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