最近の傾向として光海君(クァンヘグン)は韓国時代劇で好意的に描かれることが増えてきた。その中でもヨ・ジングが主演した『王になった男』は、彼が王と道化師の1人2役を演じて、光海君のイメージをさらにアップさせていた。
なにしろ、このドラマは大同法という庶民の減税につながる法律を大々的に取り上げていて、光海君の善政を強調していたのだ。
そんな光海君の経歴を調べていて、不思議なことを見つけた。それは、意図的に彼は子供を作りたくなかったに違いない、と思えるところだ。
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それは、どういうことなのだろうか。
実際、光海君の王妃の柳氏(ユシ)が長男を産んでいて、側室の尹氏(ユンシ)が長女を産んでいる。結局、光海君の子供は2人だけだ。
側室は合計で9人もいたが、尹氏以外は誰も子供を産んでいない。これは、とても奇妙なことだ。なぜなら、光海君の息子は1人だけなので、普通ならもっと多くの王子を誕生させるように王族女性や高官たちが積極的に働きかけるものだからだ。もしも長男が早世したら、光海君の後を継ぐ国王候補がいなくなる。
それは、王朝の存続にとってハイリスクなことだ。それを避けるために、光海君は数多い側室の間をまわって子作りに励むのが通常の王家のしきたりだった。
しかし、光海君はそれをしなかった。側室との夜の営みをあえて避けていたようだ。
それはなぜなのか。
彼は1608年に即位した後に、王位を脅かすような実兄と異母弟を死に追いやっている。そうした骨肉の争いは国王の側近たちが主導的に行なったのだが、兄弟たちを死なせたことは光海君にも責任がある。それを痛感していたからこそ、光海君はあえて自分の子供を増やさない決断をしたのではないだろうか。それが、光海君なりの責任の取り方だった。
王妃1人と側室9人で子供は息子と娘が1人ずつ。あまりに少ない子供の数は、兄弟たちを死に至らしめた光海君なりの懺悔(ざんげ)の気持ちが表れているし、彼は民衆のための善政を行なって兄弟たちの罪滅ぼしに徹しようした。
それだけに、1623年にクーデターによって廃位になってしまったのは無念であった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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