傑作『王になった男』のモデルになった光海君の人生とは?

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ヨ・ジングが主演した『王になった男』は本当に面白いドラマだった。最近の時代劇の中では傑作と言える出来栄えだといえる。

このドラマの主人公となる国王は、朝鮮王朝15代王の光海君(クァンヘグン)をモデルにしていた。あらためて光海君に関心を持った視聴者も多かったことだろう。そこで、この王について史実に基づいて説明していこう。

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光海君は、宣祖(ソンジョ)の次男として1575年に生まれた。長男の臨海君(イメグン)よりとても優秀だったので、世子に指名された。そして、1608年に宣祖が亡くなったので、15代王として即位した。

しかし、王位継承問題は混乱し、光海君の側近たちは結果的に彼の兄と異母弟を殺害してしまう。

(写真=韓国tvN『王になった男』ポスター)

暴君ではなく名君だった

とはいえ、政治的に見れば光海君は優秀な国王であった。外交面では巧みな交渉によって異民族の侵攻を防いでいるし、内政面でも庶民の減税に尽力した。業績だけ見れば名君と言われても不思議でなかった。

それなのに、1623年に大規模なクーデターが勃発してしまった。

主導者は宣祖の孫の1人である綾陽君(ヌンヤングン)。彼は自分の弟である綾昌君(ヌンチャングン)が謀反の罪で処刑されたことで、光海君に深い憎しみを抱いていた。その復讐でもあったのだ。

光海君は、うかつにも油断していた。用意周到にクーデターを実行した綾陽君は成功し、光海君は王宮から追放された。そして、綾陽君は16代王・仁祖(インジョ)として即位した。

その後、光海君は江華島(カンファド)に流罪となり、最終的には都からもっとも遠い済州島(チェジュド)にまで流された。そして、1641年に66歳で世を去った。

その後の彼の歴史的な評価はどう変わっただろうか。

近年になって歴史研究が進んでくると、光海君は暴君というより名君だと評価されるようになった。ドラマの『王になった男』でも、政治的に優れた国王が描かれており、光海君は今や暴君とは言われなくなった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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