【王朝事件簿】父によって餓死したプリンス。国王の逆鱗に触れた理由とは?

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朝鮮王朝・第21代王の英祖(ヨンジョ)の息子だった思悼世子(サドセジャ)は、14歳のときから政治の一部をまかされるようになった。しかし、なにかと邪魔をしたのが最大派閥だった老論派の高官たちだ。

彼らは自分たちを批判した思悼世子を嫌っていて、思悼世子の悪評を英祖に告げ口するようになった。

思悼世子にも非があった。彼は頭脳明晰だったが、素行が悪く側近に暴力をふるったりしていた。老論派は思悼世子の行状を英祖に歪めて報告し続けた。

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こうして、 英祖と思悼世子の間に確執が生まれるようになった。

それでも、思悼世子自身も大いに反省し、1757年には反省文を提出した。思悼世子が22歳のときだった。

その反省文は「不肖の息子の過ちです。今やようやく、自分の至らなさに気がつきました。心から後悔しています」という内容だった。

(写真=映画『王の運命』韓国ポスター)

英祖を激怒させる要因

最初は思悼世子が反省文を書いたことを歓迎していたのに、猜疑心が強い英祖は、次第に思悼世子のことを疑うようになっていった。

「反省文といっても空虚な言葉を述べている」

そう感じるようになった英祖は、思悼世子の酒癖がとても悪いことに激怒するようになった。

英祖は思悼世子を呼び出して叱責した。しかし、その場で思悼世子は巧みに弁明することができなかった。

父親に対して恐怖心を持っていた思悼世子は、ビクビクして泣き崩れてしまった。その姿が情けなく思えて、思悼世子に対する英祖の信頼も大きく損なわれてしまった。

さらに、思悼世子が側室を殺すという事件も起こり、彼の立場は極度に悪くなっていった。こうなると、親子といえども、関係を修復するのは難しくなる。結局、1762年に思悼世子が英祖によって米びつに閉じ込められて餓死するという悲劇を迎えてしまった。

この出来事は老論派の陰謀が定説になっているが、思悼世子にも英祖を激怒させる要因がたくさんあったのである。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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