元のラストエンペラー(第15代皇帝)である順帝(トゴン・テムル)の皇后だった奇皇后(キファンフ)の生没年は、定かではない。
ただ、高麗(コリョ)朝廷の官職だった父・奇子敖(キ・ジャオ)の末娘として生まれ、5人の兄と2人の姉がいたという。
ドラマ同様、貢女として元に送られたのは事実だ。当時の元の王室には高麗出身の宦官が多く、1333年に高麗出身の宦官であった高龍普(コ・ヨンボ)の推薦で元朝廷の宮女となった。
宮女だった彼女がなぜ、順帝に見初められたのか。一説によると、高龍普が彼女に給仕を任せ、順帝の目が届く場所に配置したことが大きかったともいわれている。
だが、順帝からの寵愛を受けた彼女をよく思わない者も多かった。順帝の第一皇后だったタナシルリがその人物だ。
ドラマではペク・ジニ演じるタナシルリはさまざまな嫌がらせを彼女にするが、1335年にタナシルリ兄妹が謀反で処刑。代わってバヤンフト皇后が第一皇后となるが、1339年に順帝の子アユルシリダラを産んだ奇皇后が第二皇后となった。
高麗からやって来た貢女は、元の皇太子生母として権力を手にしたのだ。
権力を手にした奇皇后は、元の朝廷内で謳歌を楽しむ。皇后の直属機関の責任者を高龍普に任せるなど、高麗出身の宦官たちを要職に就かせ、元の朝廷内で高麗の風俗を流行らせた。それは“高麗様(コリョヤン)”と呼ばれ、元の高官たちの間では「名門になるには高麗の女を嫁にせねば」という者までいたという。
そんな奇皇后の威光は高麗にも知れ渡り、一族に元の皇太子生母が生まれたことで、奇一族も高麗朝廷内で権勢を振い始める。元から高い官職を授けられた寄皇后の一族たちは、元の後ろ盾をいいことに私利私欲をむさぼりながらその権力を拡大。奇皇后も高麗への内政干渉を強めていった。
そんな奇一族の権勢を好ましく思わなかったのが、高麗の第31代王・恭愍王(コンミンワン)だった。親元勢力を排除し、改革政策を打ち出した恭愍王は、1356年に奇一族を誅殺したのだ。
当然、奇皇后はこれに激怒した。順帝に恭愍王を廃位させるよう働きかけ、順帝も1363年1月に1万人の兵を高麗に派遣。ただ、元軍は返り討ちに遭い、順帝の権力基盤も揺らぎ始めた。紅巾に乱が起き、中国で明が台頭しはじめたのである。
奇皇后はそんな順帝に代わって息子で皇太子のアユルシリダラを王位に就かせようとするが失敗。それでも1565年にバヤンフト皇后が死んだことで奇皇后はついに第一皇后になるが、元の衰退は止められず、1368年、順帝と奇皇后は明の北伐によって王都を追われ、元は滅亡してしまう。
そして、奇皇后も歴史の表舞台から姿を消す。ミスリアスな最期だった。
ちなみに現在の韓国の京畿道(キョンギド)には、奇皇后の墓と思われる古墳がある。実際に奇皇后の墓であるかは定かではないが、1655年に柳馨遠(ユ・ヒョンウォン)という人物が編纂した『東国興地志(トングッヨジジ)』にその古墳が奇皇后の墓であると記されていたという。
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