テレビ東京の韓流プレミアで放送されている『ホジュン~伝説の心医~』は、7月15日の第55話で、ついに戦争が始まってしまった。その戦争は、韓国では「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」と言われており、日本では「文禄の役」と称されている。この戦争が起こった経緯を解説しよう。
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豊臣秀吉は1585年に関白に就任した直後から大陸に攻めこんでいく構想を持っていた。朝鮮王朝も日本の動向に疑心を持たざるをえなかったので、1590年に正式な使節を日本に派遣した。豊臣秀吉に面会して戻ってきた使節団の中で、正使と副使の意見が対立した。
正使が「日本が攻めてくるでしょう」と述べたのに対し、副使は「秀吉は攻めては来ません」と報告した。結局は副使の意見が通ってしまい、朝鮮王朝は本格的に国防の強化を行わなかった。その間に着々と準備していた豊臣秀吉は、16万人の兵力を9つの軍団に編成して、ついに朝鮮半島に送りこんだ。
それは、1592年(文禄1年)4月13日だった。小西行長が率いた第1軍が釜山(プサン)に上陸して戦争が始まった。
小西行長は釜山城に対して、「仮途入明」(明に入りたいので途中の道を借りたいという主張)を通告した。朝鮮王朝側がこれに応じるわけがない。すると、小西行長は交渉を中断して、釜山城を攻めた。こうして、豊臣軍の第1軍は釜山城を攻め落としたのである。
その後も、小西行長軍は破竹の勢いで前進した。朝鮮王朝軍も対抗したが、歯が立たなかった。豊臣軍は長い戦国時代によって兵士が鍛えられていたが、朝鮮王朝では太平の世が続いて戦争に慣れていなかった。その差がはっきりと現れた。
小西行長軍は釜山に上陸してからほぼ20日後の5月3日、朝鮮王朝の都である漢陽(ハニャン)に攻め入った。その前に、朝鮮王朝の14代王・宣祖(ソンジョ/演者チョン・ノミン)はすでに都から抜け出して北に逃げていた。それほどに王宮は大混乱していたのである。以後、戦乱は1598年まで続いた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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