ドラマ『トンイ』でもその生涯が描かれている張禧嬪(チャン・ヒビン)は1701年に死罪となり、ライバルだったトンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)は1718年に亡くなった。
そのとき、息子の延礽君(ヨニングン)は24歳だった。そして、チャン・ヒビンの息子で異母兄だった世子(セジャ)は30歳だった。年齢は6歳違っていたのだ。
その2年後の1720年に粛宗(スクチョン)が亡くなり、世子は20代王の景宗(キョンジョン)として即位した。
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彼は政治的に少論派に支えられていたが、当時の政権内部で優勢だったのは老論派のほうだった。その老論派はヨニングンを支持していたので、景宗にこう進言した。
「殿下には後継ぎがおりません。王朝の存続が危うくなるので、早くヨニングン様を世弟(セジェ/王の後継者となる弟のこと)にしてください」
老論派の言い分には大義名分があったので少論派も抵抗できず、1721年にヨニングンは世弟になった。
しかし、世弟の身分は安定しなかった。少論派が巻き返しに出て、老論派の没落を画策したからだ。それは成功をおさめ、少論派は老論派を追い出して政権を握った。
しかし、その栄華は長く続かなかった。景宗が在位わずか4 年2 カ月で亡くなったからだ。
次の王位は弟で老論派の支持を受けるヨニングンが就くことが決まっていただけに、景宗の死は少論派政権の終焉に直結した。少論派にとっては、景宗に子供がいなかったことが最後まで痛手となった。
景宗の人柄について「朝鮮王朝実録」はこう記している。
「殿下は天性と言えるほど慈しみにあふれ、人徳があった。お亡くなりになられた日には臣下や民衆の間で嘆き悲しまない人がいないほどだった。誰もが哀悼し、慕い、敬っていた」
まさに最大級の称賛ぶりである。このように、景宗は人間的に評判が良かった。それは、政治的にさしたる業績を残せなかったことを十分に埋め合わせている。
特に、景宗は異母弟のヨニングンの面倒をよく見て、弟が王位を継ぐ道を整えた。
この点でも景宗の人間性がよくわかる。他人への思いやりが深い人物だったことは間違いない。
36歳で世を去った景宗。死罪になったチャン・ヒビンの息子として精神的に苦しかったはずだが、その人生は立派なものだった。
そして、1724年に後を継いだヨニングンは英祖(ヨンジョ)となり、以後は52年という長きにわたって王位を守り続けた。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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