トンイが生んだクムと張禧嬪の息子が後継者を争った背景とは?

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テレビ東京の韓流プレミアで放送されている『トンイ』では、トンイが最初の子供を亡くして悲嘆に暮れるが、やがて二人目の息子を産むようになる。

その息子が後に21代王・英祖(ヨンジョ)となるのだが、当時は史実でどのような状況になっていたのだろうか。

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『トンイ』韓国制作記者会見寄り(写真=SPORTS KOREA)

歴史的にいえば、トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)が粛宗との間に二人目の子供を産んだのは、1694年9 月20日のことだった(最初の子は、前年の秋に生まれたが、2 カ月しか生きられなかった)。

粛宗はとても喜び、側近や医官に褒美として馬を贈っている。それほど感激が大きかったのだ。

なお、『トンイ』では新しく王子が生まれたとき、トンイは王宮の外に住んでいたことになっているが、実際はそんな事実はなかった。ずっと、王宮の中で住んでいたのである。

一方、粛宗の長男は1688年に張禧嬪が産んでおり、世子(セジャ/王の後継者)は先に長男に決まっていた。年長の者を立てるのは儒教社会では当然のことで、6歳の年齢差はことさら大きかった。

しかし、張禧嬪は決して安穏としてはいられなかった。いつ粛宗の気が変わるかわからなかったからだ。

そういう不安をぶつける相手が、張禧嬪にとっては仁顕(イニョン)王后だった。

性格が優しすぎるのをいいことに、張禧嬪は何かと仁顕王后にきつく当たった。その最たることが呼び方だった。

本来なら、側室も女官も王妃のことを「中殿(チュンジョン)」と呼ばなければいけないのに、張禧嬪はいつも「閔氏(ミンシ)」と名前で呼んだ。敬称をはぶくというのは、当時としては非常に無礼なことだったのだが……。

しまいには、張禧嬪は女官に仁顕王后の寝殿の窓に穴をあけさせ、中を覗いて見たことを周囲に言いふらすようにした。

このように、張禧嬪が仁顕王后を愚弄したのは、王妃に復帰したいという気持ちが強すぎたためだ。すでに粛宗の寵愛を失っているのに、張禧嬪は必死だった。それもすべて長男の世子の立場を強固にするためだった。

こうして、張禧嬪の息子と淑嬪・崔氏の息子が後継者の座をめぐって争うようになっていった。それによって、大事件も起こってしまうのだが……。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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