NHKで毎週日曜日に放送されている『ヘチ 王座への道』は、いよいよ延礽君(ヨニングン)が世弟(セジェ)になっていく。
この世弟というのは、「王の後継者になっている弟」という意味だ。つまり、兄の国王が亡くなったら、弟が後を継ぐ、ということなのだ。
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それでは、延礽君はどのように世弟になったのだろうか。歴史的な経緯について見てみよう。
1720年に粛宗(スクチョン)が世を去り、20代王として景宗(キョンジョン)が即位した。彼に息子がいれば、その息子が世子になっていただろう。
しかし、景宗には息子がいなかった。そうなると、王族の中から後継者を探さなければならない。
景宗には6歳下の異母弟がおり、それが延礽君である。
必然的に、景宗は延礽君をすぐに後継者に指名すれば良かったのだが、それが簡単にできない事情があった。
というのは、派閥の力学が問題を難しくしていた。当時は老論派と少論派の勢力が拮抗しており、両派閥は激しく争っていた。
ちなみに、景宗は少論派に支持されており、延礽君を支えていたのが老論派だった。
こうした事情があったので、景宗としても弟の延礽君を後継者にするのは簡単ではなかった。自分を支持してくれている少論派は延礽君に対して批判的な目を向けていたからだ。
とはいえ、延礽君を除くと、後継者の有力候補がほとんどいないのが実情だった。
しかも、景宗と延礽君の仲は悪くなかった。もちろん、景宗としては、延礽君が露骨に自分の王位を狙おうとしている、と疑ったら、延礽君を世弟にできないのは当然のことだ。
『ヘチ 王座への道』でも、延礽君の王位に対する意欲を景宗が敏感に感じて困惑する場面が描かれていた。
ただ、景宗としては他に選択肢がないのも事実で、結局、1721年に景宗は延礽君を正式に世弟に任命している。
景宗は病弱だった。それだけに、世弟になって延礽君の王位はグッと近づいたといえるだろう。結局、世弟になれたことが延礽君の王位継承につながったのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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