『ヘチ 王座への道』では、粛宗(スクチョン)が亡くなって景宗(キョンジョン)が即位していった。しかし、これは順当な結果ではない。様々な思惑が入り乱れていたのだ。それでは、実際の歴史では、粛宗の後継者争いはどのように推移していったのだろうか。
粛宗(スクチョン)の王子の中で、老論派は延礽君(ヨニングン/淑嬪〔スクピン〕・崔〔チェ〕氏の息子)を支持していた。反対に、少論派は景宗(キョンジョン/張禧嬪〔チャン・ヒビン〕の息子)を応援していた。結局、粛宗の後継者争いで老論派と少論派は激しく対立していた。
【関連】『ヘチ』に出てくる景宗は『トンイ』でも息子がいないことを問題視されていた
ただし、粛宗は景宗では物足りないと思っていた。むしろ、彼は延齢君(ヨンニョングン)のことをとても気に入っていた。この延齢君は粛宗が寵愛する側室から生まれた王子で、景宗や延礽君の異母弟だった。
以上が粛宗の後継者候補の3人だ。生まれた年は、景宗が1688年、延礽君が1694年、延齢君が1699年だった。
『ヘチ 王座への道』の序盤が描かれていた1719年の段階では、景宗が31歳、延礽君が25歳、延齢君が20歳となっていた。
すでに世子(セジャ)は景宗に決まっていた。しかし、粛宗が景宗を高く評価していないことを知っていた老論派は延礽君を強く後押ししていた。
そして、一番の決定権を持っていた粛宗は、延齢君のほうに気持ちが傾いていた。なんといっても、延齢君は頭脳明晰で親孝行だった。粛宗はいずれ時期を見て世子を景宗から延齢君に変更しようと思っていた。
しかし、1719年に延齢君は急死してしまった。このことは粛宗を絶望させ、彼はすべての望みを諦めなければならなくなった。こうして、それまでの予定どおり、景宗の跡継ぎが正式決定したのだ。
結局、景宗は粛宗が亡くなった1720年に20代王として即位した。しかし、彼はわずか4年に世を去り、その次を延礽君が担うことになった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
【関連】『ヘチ』で情けない王として描かれる景宗は本当はどんな人物?
前へ
次へ