粛宗(スクチョン)の後を継いで王位に上がった20代王・景宗(キョンジョン)は、1688年に生まれている。父親は粛宗で、母親は張禧嬪(チャン・ヒビン)だ。
1688年というと張禧嬪はまだ側室だったが、粛宗は30歳近くになっても息子を得ることができなかった。
それゆえ、粛宗は後継ぎのことで大変悩んでいたのだが、張禧嬪が息子を産んでくれて本当に喜んだ。
【関連】『ヘチ』で情けない王として描かれる景宗は本当はどんな人物?
仁顕(イニョン)王后は子供を産む兆候が全くなかったので、粛宗は景宗のことをとても可愛がり、早くから世子(セジャ)にするつもりだった。
とはいえ、景宗は身体が丈夫ではなかった。そのあたりのことは『トンイ』でも描かれていた。
それはどういう話かというと、息子が病弱で子供が作れるような身体ではないことをとても心配した張禧嬪が、息子の病状を極端に隠蔽するというストーリーだった。
実際、張禧嬪は息子を絶対に王にするために、世子として不利になることを隠し通していた。そうしたエピソードが『トンイ』でも繰り返し語られていた。
それでも、粛宗は景宗の世子としての資格を守り通した。長男であったことを一番尊重したのである。
その粛宗が1720年に世を去り、予定通り景宗が王になった。その瞬間から景宗は早く世子を決めなければならなかった。しかし、自分に子供がいないので世子を決めることができなかった。
『ヘチ』では、子供がいない景宗に養子を見つけようという話が描かれている。それが重要なストーリーの1つになっていくのだが、現実的に言えば延礽君(ヨニングン)という弟が真っ先に候補になるべきだった。
朝鮮王朝の王家は血統を一番重要視しているので、王に子供がいなければ血統的に一番近い親族が王の後継者になるのが必然だった。
こうして、延礽君は最有力な後継者になった。この場合「世を受け継ぐ弟」という意味で世弟(セジェ)と呼ばれた。
延礽君は世弟の身分を得たので、堂々と王の後継者を内外に示すことができた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
【トンイの真実】歴史書が記されたチャン・ヒビンの息子・景宗の人柄と悲運
前へ
次へ