1392年、ひとりの武将が歴史の表舞台に躍り出た。名を李成桂(イ・ソンゲ)という。彼は、疲弊しきった高麗王朝を終焉へと導き、新たな時代の夜明けを告げる王朝を建国し、初代王・太祖(テジョ)として即位した。
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太祖が最初に手をつけたのは、新しい王朝の「正統性」を確立することだった。武力で王座を得た者には、常に「簒奪者」という陰がつきまとう。それを払拭するために、彼は内外に新しい王朝の必要性を確かな形で示す必要があった。
このとき、彼が目を向けたのは、当時の超大国である中国の明であった。太祖は新たな国号として「朝鮮(チョソン)」と「和寧(ファリョン)」の二案を用意し、明に選定をゆだねた。前者は、古代以前に朝鮮半島に根づいてきた由緒正しき名。
後者は自身の故郷の名にちなんだものである。いずれも彼にとって都合のよい国号であり、選ばれればその由来を自らの治世の象徴とすることができた。
このように「選んでもらう」という形式をとることで、朝鮮王朝は明からのお墨付きを得ることに成功した。その結果、「朝鮮」という名が1393年に正式な国号として認められた。
正統な国王としての第一歩を踏み出した太祖は、急ピッチで王朝の土台を築いていく。1394年には都を漢陽(ハニャン/現在のソウル)に遷し、1395年には壮麗な宮殿・景福宮(キョンボックン)の建設を開始した。
だが、武将として戦場に生きてきた太祖にとって、国家運営の知略は未知の領域でもあった。そこで支えとなったのが、学者にして政治家の鄭道伝(チョン・ドジョン)だ。
彼は王朝創設における第一等の功臣で、太祖が最も頼り抜いた側近であった。政治哲学にも優れていて、太祖が重んじた理想国家の設計図を描いたのも鄭道伝だった。
太祖は鄭道伝を深く信頼し、後継者問題においてもその知恵に頼った。しかし、皮肉にもこの「信頼」が王朝を揺るがす重大な危機を呼び寄せることになってしまうのだが…。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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