朝鮮王朝の始祖・李成桂(イ・ソンゲ)はいかにして王になったか

2020年06月11日 歴史 #歴史人物
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500年の歴史を誇る朝鮮王朝の建国の始祖である李成桂(イ・ソンゲ)。1335年に高麗(コリョ)の豪族の子として生まれた李成桂は、武将として数々の武功を立てたといわれている。

1380年には倭寇対策で功績を上げ、現在の全州(チョンジュ)市には帰郷の際に李成桂が立ち寄って戦勝を祝ったとされる“梧木台(オモクデ)”と“梨木台(イモクデ)”がある。

その後、李成桂は高麗の王であった禑王(ウワン)から中国の明王朝への牽制のために遼東地域の征伐を命じられるが、明王朝との関係構築を唱えていた李成桂は、威化島(ウィファド)にさしかかると部隊を首都・開京(ケギョン)に返してクーデターを起こし、禑王を引きずり下ろして権力を手に入れた。これが俗にいわれる「威化島回軍(ウィファド・フェグン)」だ。

そして1392年、高麗最後の王となる恭譲王(コンヤンワン)に譲位させて自らが王に就き、翌1393年に国号を「朝鮮(チョソン)」と改める。高麗の臣下たちには反発する者も多かったが、李成桂は対抗勢力を粛清したり、高麗の臣下たちが集まる村に火を放ったりと、徹底的に高麗派を排除した。

つまり、圧倒的な軍事力と権力を使って、自らの王朝を築いたわけだ。

一部の学者が唱える女真族説とモンゴル人説

その後、都を現在のソウルである漢城(ハンソン)に移し、朝鮮王朝の基本法典『朝鮮経国典(チョソンキョングッチョン)』を編纂して、政治の基盤を確立。

また、正宮である景福宮(キョンボックン)を建設し、全国を咸境道(ハムギョンド)、平安道(ピョンアンド)、黄海道(ファンヘド)、京畿道(キョンギド)、江原道(カンウォンド)、忠清道(チュンチョンド)、慶尚道(キョンサンド)、全羅道(チョンラド)の8つの行政区域に分けた。「朝鮮八道」と呼ばれたこの区分けは、現在の韓国・北朝鮮の行政区画の基本にもなっている。

李成桂の肖像画(写真=御真博物館)

李成桂は1408年に74歳で崩御。その後、朝鮮王朝の王位は李成桂と同じ全州(チョンジュ)李氏一族によって世襲され、約500年続くことになるが、一部では李成桂が生粋の高麗人ではないという学説もある。

李成桂の祖先の出身地である咸鏡道が15世紀までは女真族の領土だったことや、李成桂の父の部下に女真族が多かったことで女真族説があったり、李成桂の一族が代々官職を務めていた双城総官府が元の直轄統治機構だったことから「李成桂はモンゴルの軍閥の子孫だった」と唱える学者もいる。

これの諸説については未だに解明されておらず、立証されていないので韓国ではほとんど議論されない。

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