“救国の英雄”と讃えられてきた李舜臣(イ・スンシン/1545~1598年)は、朝鮮半島の長い歴史で最も尊敬されている将軍である。
1592年に始まった豊臣軍との戦いにおいて、朝鮮王朝は幾度も敗れてしまった。しかし、李舜臣が率いた水軍だけは、海の上で光のように奮い立ち、絶望の海原に勝利をもたらした。
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彼の戦術は、ただ勇ましいだけではなく、自然と対話するような静かな知恵に満ちていた。特に潮流を読む眼は神業の域にあり、潮の流れと風の声を味方につけて、自軍を有利な場所へと導いた。彼は地の利を熟知し、故郷の地形を巧みに活かして勝利を重ねた。
しかし、名声は時に人の心を乱す。李舜臣の輝きは、やがて味方の嫉妬を招いた。「敵と内通している」という、根も葉もない噂が広まり、彼は無念にも失脚して投獄されてしまう。皮肉なことに、彼の手ごわい相手は、異国の軍勢ではなく、同じ朝鮮半島に生きる身内だったのである。
それでも李舜臣は、心に深い傷を抱えながらも、祖国の危機に背を向けなかった。再び最前線に戻ったとき、彼の手元にあったのは、壊れた船と士気の下がった兵ばかりであった。それでも彼はあきらめず、波に打たれた艦隊を1つ1つ立て直し、再び勝利の帆を掲げた。
彼の中には、どんな窮地でも希望を見出す力…ピンチをチャンスに変える不屈の魂が宿っていた。
やがて豊臣軍が撤退を始めたとき、李舜臣は最後の総攻撃を命じ、自らも出陣した。しかし、その戦いの最中、流れ弾に当たってしまった。彼は最期の力を振り絞り、息子と甥を呼び寄せて言い残した。
「私が死んでもそれを隠せ。知られれば、兵の士気が下がってしまう」
それが、彼の遺言であった。自己の命よりも兵の心を守ろうとしたのだ。その言葉には、武人としての気高さと祖国を思う愛がにじんでいた。
結局、李舜臣はただの軍人ではなかった。味方の裏切りにも耐え、最後まで自分の信念に生きた稀有の偉人である。
文=大地 康
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