李舜臣(イ・スンシン)といえば、『不滅の李舜臣』(2004年~2005年)でキム・ミョンミンが演じ、功績に大きな影響を及ぶすほどの功績を残した人物だ。ソウルの中心部に銅像が立てられるほど尊敬を集めている彼は、韓国だけでなく世界からも高く評価されている。
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そんな李舜臣は朝鮮王朝の歴史の中で、どんな活躍をしたのかを見てみよう。
1545年に名門の家に生まれた李舜臣は、小さいころから戦の真似事をして喜ぶような子供だった。
32歳のときに武科(武官を選抜する試験)に合格した彼は、武官として北方の国境警備など立派に仕事したが、性格があまりにも頑固であったがために誤解を生むことも多かった。
そんな李舜臣にとって転機となったのは全羅道(チョルラド)の水軍守備隊長として配属されたときだった。短期間で水軍の兵法を身につけた彼は、誰にもまねできないような戦略を立てた。
1590年、日本の軍勢が攻めてくる可能性があると噂を聞いた朝鮮王朝側は、海の守りを固めたり、水軍指令基地で大幅な人事異動を行なうなどの対策を取った。その際に全羅道の水軍基地の司令官に任命されたのが李舜臣だった。
司令官となった彼は、最初に亀甲船の製作に取り掛かった。亀甲船とは、文字通り亀の甲羅に似た船で、船の上を鉄板で覆っている。敵の乗船を防ぐだけでなく、前後左右にある大砲を最大限に生かすことのできるものだ。
1592年、日本から豊臣軍との戦いの中で、李舜臣が率いていた水軍は亀甲船の活躍により豊臣軍の補給を断つという功績をあげたが、朝鮮王朝が滅亡するかもしれないという危機的状況の中で、李舜臣は「日本と内通している」という疑いをかけられて投獄されてしまう。
李舜臣の活躍により一度は撤退した豊臣軍が1597年に再び攻めてきたが連敗してしまう。その状況に焦った高官たちは、李舜臣を水軍の総司令官に戻した。
そんな彼を迎えたのは12隻の小さな船だった。もはや「勝ち目がない」と思えるが、李舜臣は諦らめずに不眠不休で水軍を再編成し、荒れた海流などを利用した戦術で、見事に巻き返したのである。
1598年8月、豊臣秀吉が亡くなったという知らせ聞いた李舜臣は、それを絶好のチャンスと捉えて総攻撃を開始した。しかし、その戦いの中で李舜臣は流れ弾に当たり倒れてしまう。自分が死ねば兵の士気が下がると思った李舜臣は、息子と甥に「私の姿を盾で隠し、今後の指揮はお前たちに任せる」と言って亡くなった。
死ぬまで戦い続けた李舜臣は、不滅の将軍と呼ぶにふさわしい人物だ。
これまでに多くの韓国時代劇で、その活躍が描かれている李舜臣。朝鮮王朝時代に実在した将軍の中でも、今でも多くの人から尊敬されている将軍は彼をおいて他にいないだろう。
【李舜臣の人物データ】
生没年
1545年~1598年
主な登場作品()内は演じている俳優
『林巨正-快刀イム・コッチョン』(チョン・テウ)
『不滅の李舜臣』(キム・ミョンミン)
『九家の書』(ユ・ドングン)
『軍師リュ・ソンリョン~懲毖録<ジンビロク>~』(キム・ソックン)
文=大地 康
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