実在した韓医学の名医・許浚(ホ・ジュン)、『東医宝鑑』は徳川吉宗も読んだ!!

2020年06月20日 ヒストリア #歴史人物
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“韓国時代劇の巨匠”とされるイ・ビョンフン監督の代表作である『ホジュン-宮廷医官への道-』。ドラマの主人公である許浚(ホ・ジュン)は実在の人物だ。

生まれは1539年。祖父や父は武官という両班の一族生まれ。が、ドラマ同様に正妻の子ではない庶子だったため、母親の名は定かではない。

そのため出生地も不明。ドラマでは現在の北朝鮮に位置する龍川(ヨンチョン)となっていたが、現在のソウルで生まれたという説もある。さらにいえば、ドラマではイ・ダヒと結婚するが、『族譜(チョッポ)』と呼ばれる家系図に記された妻の姓は「キム」となっている。

もっともドラマで描かれている通り、朝鮮王朝の第14代王・宣祖(ソンジョ)の主治医だったことは事実だ。宣祖の治世を記した『朝鮮王朝実録』の『宣祖実録』には70回以上も許浚の名が登場する。

許浚の肖像画(写真=許浚博物館)

ドラマ内の師匠であたる楊礼寿(ヤン・イェス)が20回程度だけに、許浚がどれだけ王の信任を得ていたかがよくわかるだろう。

その宣祖が許浚に朝鮮独自の医学書を編纂するよう命じたのは、1596年。当時の朝鮮では中国の明(みん)医学が主流で、明から輸入される漢方が多用されていたが、1592年に勃発した壬辰倭乱(イムジンウェラン=文禄の役)などで国内情勢は不安定になり、明医学の薬の輸入が難しくなっていた。

また、明医学では朝鮮半島の環境や病理に適さない部分もあり、朝鮮独自の医療の必要性を迫られていたこともあって、許浚がその陣頭指揮を任されたという。

武官一族の庶子として生まれるも医官になる

ただ、1608年に宣祖が崩御し、許浚はその責任を取らされ流刑に。それで翌年には復職し、1610年に全25巻の『東医宝鑑』を完成させる。

『東医宝鑑』は中国の古今の医書を再編集しつつ、朝鮮独自の医学も盛り込まれた医学百科事典のようなもの。症状や薬材ごとに処方や効能が記されており、庶民でもわかりやすく作られていることが高く評価されている。中国やヨーロッパでも翻訳され、日本ではあの徳川吉宗も目を通したと言われている。

ちなみに1991年、韓国と北朝鮮の非武装中立地帯で許浚の墓が発見された。また、許浚が出生したとされるソウル市にはその功績や韓医学を学べる『許浚博物館』がある。

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