長野市にある善光寺の本堂。その壮大な大伽藍は東日本で最大級だという。本当に堂々たる威容だ。しかし、本堂の中に入っても本尊を拝むことはできない。絶対的な秘仏だからである。代わって、忠実に再現された“前立本尊”が作られている。
舟型の光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩…これを“一光三尊阿弥陀如来”という。
また、“前立本尊”も宝庫に安置されていて秘仏扱いになっており、7年ごとに一般公開される。このように秘密めいている“一光三尊阿弥陀如来”は、もともと百済(ペクチェ)から来たと言われている。
善光寺に伝わる“善光寺縁起”にはその由来が書かれており、大意は以下のようになっている。
「天竺(インド)から百済に伝わった阿弥陀三尊像が、聖明王の時代に朝鮮半島の人々を救済した。後に、日本に仏教を広めるために、阿弥陀三尊仏が日本に渡った。当時の欽明天皇は仏教を信じる蘇我氏に三尊仏を与えた。ところが、疫病がはやってしまった。仏教を信じない物部氏は、異国の神を祀って日本の神が怒ったのだと主張し、蘇我氏が建てた寺を焼き払い、三尊仏を難波の堀江に投げ込んだ。後に、信濃の国の本田善光がたまたま堀江を通ったとき、水中から突然三尊仏が現れてきて、信州に連れていけ、とお告げをした。言われたとおり、善光は故郷に草堂を建て、三尊仏を安置した。これが、善光寺の始まりとなった」
こうした縁起は寓話だが、きっちり史実も入っていると思われる。善光寺の創建を立証する確かな史料は残っていないが、境内から見つかった瓦によって、7世紀後半には大規模な寺だったことが推測される。また、古い記録によって、8世紀中頃に善光寺の本尊が「日本最古の霊仏」として有名だったこともわかっている。
一説によると、“善光寺縁起”に登場する本多善光はもともと百済の王族だったと言われている。彼が信仰していた阿弥陀像を安住の地に安置して仏教を広めたという話も残っている。このような伝承からも、善光寺と百済の不思議な縁を感じることができる。
文・写真=康 熙奉(カン・ヒボン)
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