NHK総合テレビで日曜日に放送中の大河ドラマ『べらぼう』。主人公の蔦屋重三郎(演者は横浜流星)は版元(出版社)として仕事を拡大するが、転機になったのが日本橋に店を出したことだ。以後、蔦屋重三郎の活躍は日本橋を舞台にして描かれる。
【関連】『べらぼう』が描く「浅間山の大噴火」の頃は朝鮮王朝も名君イ・サンの時代だった
江戸時代の日本橋といえば、五街道の起点であり、交通の要衝であった。また、重要だったのが、縦横に川が張り巡らされていたことだ。だからこそ、魚河岸があって江戸庶民の台所を支えることができたのである。そういう意味で、日本橋は川によって支えられていたと言える。
目を転じて、朝鮮王朝時代に首都だった漢陽(ハニャン/現在のソウル)の場合を見てみよう。漢江(ハンガン)という大河が漢陽の南側にあったが、現在とは違って当時は首都の繁華街から離れていた。むしろ、庶民の生活を支えた川となっていたのが、清渓川(チョンゲチョン)だった。
この清渓川は、漢陽の中心部を西から東へ流れていた。全長が約11キロメートルで、最後に漢江にそそいでいく。朝鮮王朝時代には首都に住む庶民に欠かせない川であり、飲料水を供給し、下水道としての役割を果たしていた。それだけ生活に密着していたので、川の周囲には必然的に、鐘路(チョンノ)のような繁華街ができていた。
このようにして、「江戸の日本橋」に匹敵するほどの賑わいを見せたのが「漢陽の清渓川」であった。しかし、20世紀になってからは役割が大きく変わってしまった。
川の汚染が深刻になったこともあり、1960年以降には清渓川全区間をコンクリートで蓋をすることになり、清渓川は清渓路となり、高架道路も建設された。また、道路沿いにはたくさんの商店街が立ち並んだ。
その後、「清渓川を取り戻そう」という風潮が強くなり、高架道路が撤去されることになった。2005年に復元工事が終わり、人工的な清流として清渓川が戻ってきた。川沿いの歩道も整備され、市民の憩いの場所として人気を集めている。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【関連】『べらぼう』蔦屋重三郎と同じ時代を生きた朝鮮王朝の偉人
前へ
次へ