NHK総合テレビで日曜日午後8時から放送されている『べらぼう』。江戸時代後期に出版業で名をなした蔦屋重三郎(演者は横浜流星)が主人公になっている。
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この蔦屋重三郎は1750年に江戸の吉原で生まれている。それならば、1764年には14歳になっていた。この年齢なら、当時の江戸を大騒ぎさせた朝鮮通信使の大行列を見た可能性がある。そのあたりの背景をさぐってみよう。
朝鮮通信使は朝鮮王朝が江戸幕府と国書を交換するために派遣した外交使節だ。江戸時代に合計12回来日しており、徳川将軍の襲職祝賀を名目とすることが多かった。そして、11回目の使節が1764年に江戸に来ている。
朝鮮通信使の一行の規模は破格だった。正使、副使、従事官をはじめとして472人が集まり、外交使節の他に儒者、作家、書家、画家、医者なども同行して文化交流に力を注いだ。
来日の際の経路を見てみよう。朝鮮王朝の都だった漢陽(ハニャン)を出発して陸路で釜山(プサン)に至った後は、船で対馬、壱岐、瀬戸内海を経由して大阪に上陸した。
そこから淀川をさかのぼって京都に出て、陸路で江戸に向かった。日本国内での接待と警護はすべて沿海・沿道の各藩が担当し、その饗応のために莫大な経費を必要とした。
こうして江戸にやってきた朝鮮通信使は、江戸城で徳川将軍と国書を交わすのだが、江戸の宿舎は現在も浅草に残っている東本願寺であった。
当時の江戸では、朝鮮通信使の一行が通る度に沿道を見物客が埋めて大変な騒ぎになった。実際、通りには何重も人垣が出て、長い行列を見ながら大歓声を挙げたという。それほど、江戸の庶民の関心がとても高かったのである。
吉原と浅草はとても近い。好奇心が旺盛な14歳の蔦屋重三郎ならば、噂を聞きつけて朝鮮通信使の一行を見に出かけたかもしれない。
もしそうであるならば、彼の目には見なれない衣装に身を包んだ異国の外交使節はどのように映ったであろうか。そういうことを想像するだけで、とても楽しくなってくる。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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