私は釜山(プサン)タワーの上から、対馬の島影を何度か見たことがある。それくらい、日本と近い。したがって釜山は、壬辰倭乱の最初の戦場になったのだった。
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龍頭山周辺の南浦洞や光復洞が旧市街とすれば、その北側にある西面(ソミョン)は1980年代頃から急速に発展してきた新市街である。その西面に近い釜山鎮(プサンジン)城で本格的な戦闘が始まった。
現在、釜山鎮の地名は残っているものの、遺構はほとんど残っていない。しかし、そこから少し離れた所にある支城は、その後改修工事がなされたものの、よく保存されている。
釜山鎮支城は、地元では子城台(チャソンデ)と呼ばれている。
1975年に復元された西門を通ると、公園として整備されており、なだらかな斜面は、ちょうど良い散歩道だ。そして、上り坂の所々に、城の石垣の跡を見ることができる。
この地には、もともと朝鮮の人たちが築いた城があったようだが、毛利輝元が日本式の城に築き直した。指揮官である小西行長にちなんで、小西城とも呼ばれた。
この城の周りはもともと海だったが、日本の植民地時代に埋め立てられた。城の南側を見ると、港で荷揚げされたコンテナが、積み上げられている。
2002年秋に釜山でアジア大会が開催された時、取材に来ていた私は2週間余り、この近くのホテルに滞在していたので、この地域の地理には詳しいが、城の南側に、私が見慣れない建物が建っていた。
「永嘉台(ヨンガデ)」と書かれたその東屋は、2003年9月に復元されたものであるが、もともとは、1614年に建てられたものだ。
ここは、朝鮮通信使の発着地であった。1617年、日本に向かう正使・呉允謙(オ・ユンギョム)が永嘉台から出発して以後、1811年に朝鮮通信使の派遣が終わるまでの間、ここで航海の安全を祈願する海神祭も行われた。
朝鮮通信使は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の戦後処理として1607年に派遣された回答兼刷還使に始まり、1636年からは通信使として派遣された使節団で、1811年まで12回渡日し、日朝交流の役割を果たした。
そうした親善使節の出発点が、別名・小西城である子城台に隣接しているとは、意外であった。永嘉台は、1910年、鉄道の京釜線建設などに伴い撤去されていた。
また龍頭山にあった倭館は、1637年に移設されたもので、1618年に最初に築かれたのは、子城台の近くであった。したがってここは、壬辰倭乱の最初の本格的な戦闘が始まった地であると同時に、江戸時代になって、関係修復が行われた地でもあった。
文・写真=大島 裕史
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