【深発見63】朝鮮戦争の激戦地にある謎の地域「倭館」

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1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は、北朝鮮人民軍の攻勢によって、韓国は次々に陥落していった。

在韓米軍のウォーカー司令官は7月29日、これ以上の後退は許されない最後の防御線として、洛東江(ナクトンガン)防御線、いわゆるウォーカーラインを構築した。この洛東江防衛線は、かつての伽耶の地域と、ほぼ重なる。

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洛東江防御線は、馬山(マサン)まで南に延びる縦の軸をX線として米軍が受け持ち、浦項(ポハン)まで東に延びる横の軸をY線として韓国軍が受け持った。

そしてX線とY線が合流する地点は米軍と韓国軍の共同作戦地域となったが、それが大邱の西側にある倭館(ウェグァン)であった。

米軍と韓国軍が共同管理するということは、それだけ意思の疎通が乱れて、隙が生じる可能性があり、敵の攻撃を受けやすかった。

そのためこの地域は、朝鮮戦争最大の激戦地となった。特に倭館地域の多富洞(タブドン)での激戦は、今日でも語り継がれている。

大邱から鉄道で約20分の所にある倭館(ウェグァン)。日本といかにも関係がありそうな名前は、以前から気になっていた。

この名前は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、秀吉軍が駐屯したことに由来するという。とはいえ、日本の在外公館や居留地であった倭館は、釜山(プサン)など、複数の地域に存在するが、倭館という地名は残っていない。

(写真=大島 裕史)

「倭館駅から」乗ったタクシーの運転手は、「正直、好きな名前じゃない」と、不満を漏らした。にもかかわらず、なぜ倭館という地名が残ったかは、疑問のままだ。

倭館駅の北側には、地図に書かれていない広いエリアがある。在韓米軍の基地である。2008年韓国で上映された『GO GO 70s』に登場する伝説のロックバンド・デビルスは、この基地の街で誕生した。

駅から米軍基地をすり抜け、山道をしばらく進むと、多富洞(タブドン)に着く。この地はかつて、大邱とソウルを結ぶ街道の要衝であり、人とお金が集まったことから多富洞という、いかにも金持ちそうな名前になったという。

しかしかつてこの地は地獄だった。

北朝鮮の突然の侵攻により、兵力も物資も不足したため、学徒兵とか少年兵と呼ばれた高校生たちが、訓練をほとんど受けず、不十分な装備しか持たされないまま、前線に投入された。

多富洞が陥落すれば、大邱の陥落も時間の問題であった。米軍は、洛東江防御線が崩壊した場合、撤退することを検討していた。まさに、韓国の生き残りをかけた戦いだったわけだ。

一方、北朝鮮側は金日成(キム・イルソン)が、解放記念日である8月15日までに、韓国全土の占領、それが困難なら大邱だけでも陥落させることを指示しており、こちらも総力戦を繰り広げた。

文=大島 裕史

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