【深発見51】悲劇の北朝鮮避難民たちの待ち合わせ場所“影島大橋”とは

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チャガルチ市場を海に沿って東に移動すると、昆布、するめなどの乾物を売る市場が見えてくる。この一帯は、日本の植民地時代から残る古い建物が多い。

さらに東の影島(ヨンド)大橋の辺りに行くと、壁にトタンを埋め込んだ、非常に古い2階建ての建物がある。実はこの建物を含めこの一帯には、北朝鮮地域の出身者が多く暮らしている。それには、理由がある。

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1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は、北朝鮮・人民軍が圧倒的な優勢のうちに釜山などの南東部を除く、朝鮮半島のほぼ全域を占領した。

しかし9月15日の仁川(インチョン)上陸作戦の成功で、国連軍や韓国軍は形成を一気に逆転し、朝鮮半島北部まで進軍した。

10月下旬には中朝国境の鴨緑江(アムノッカン)べりまで占領したが、その時中国の人民志願軍が密かに鴨緑江を渡り、朝鮮半島に侵入していた。

そして11月には、大量の北朝鮮・人民軍と中国・人民志願軍(いわゆる共産軍)が、総攻撃を開始した。

予想を超える共産軍の人海戦術に、国連軍と韓国軍は後退を余儀なくされた。それにともない、朝鮮半島北部に暮らす多くの住民も、南へ南へと避難した。

しかし、あまりに突然であったため、避難する準備が整わない人もいたうえ、過酷な寒さの避難行は、女性や子供には厳しすぎた。

それでも男性は、軍隊に召集されるなどの恐れがあり、妻子より先に避難することが多かった。逆に南へ向かう避難船に乗るのは、女性や子供が優先されることが多かったという。

家族は不安を抱えながら、釜山で会うことを約束して、泣く泣く離れ離れになった。

ところが、朝鮮半島北部に暮らす人たちは、釜山のことをよく知らない。そのため待ち合わせの場所にしたのが、影島大橋であった。

1934年に建設された影島大橋は、船が通過する時に中央が開く可動橋であった。朝鮮半島で初めての可動橋である影島大橋は、たちまち釜山の名所となり、朝鮮半島北部の人たちにも、その存在は知れ渡っていた。
そのため多くの人が影島大橋を待ち合わせ場所にし、先に避難してきた人たちは、そこで家族を待っていた。

しかしながら戦争は、分断を一層固定的なものにし、別れた家族の生死すら確認できないまま、60年以上の歳月が流れてしまった。

一方、北朝鮮地域の人たちの間でも知られていた影島大橋は、1966年を最後に橋の開閉を中断し、老朽化とともに、崩壊の危険性すら指摘されるようになった。

そのため2007年から復元工事が行われ、2013年11月に再開通。再び橋が開くようになった。

また龍頭山の東側で、国際旅客船ターミナルに向かう途中にある40段の階段、いわゆる四十階段も、北朝鮮からの避難民の待ち合わせ場所として知られ、今日、記念碑が立っている。

文=大島 裕史

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