【深発見65】韓国の大統領だった朴正熙の生家

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倭館(ウェグァン)から少し西に向かうとKTXも停車する亀尾(クミ)に着く。ここは大統領だった朴正煕(パク・チョンヒ)の生誕の地である。朴正煕の生家には、亀尾駅から15番のバスに乗り、30分ほどで着く。

朴正煕路という通りを渡ると、そこは聖地のたたずまいだ。私が訪れたのは、李明博(イ・ミョンバク)政権時代の2010年である。その日は、日曜日だったこともあり、生家への訪問者も多かった。

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道に沿って生前の写真が展示してある遊歩道を歩いてしばらくすると、「民族の英雄 朴正煕大統領生家訪問を歓迎します」という文字が飛び込んでくる。

茅葺きの生家は、壁が崩れ落ちそうだったため、後に建て替えられたものだという。生家の隣には、夫妻の大きな遺影を掲げた祭壇が設けられ、焼香所がある。

(写真=大島 裕史)

生家付近から周辺を見ると、高層のアパート団地が立ち並び、かなり発展した様子がうかがえる。しかしそれは、亀尾に工業団地が建設された1970年代以降のことである。

朴正煕の生家のすぐ近くには山が迫っている。狭い盆地が多い大邱周辺は、米作にはあまり適した土地ではなかった。

それゆえ朴正煕も貧農の出身であった。貧しさからいかに抜け出すかは、朴正煕にとって、生涯のテーマであった。

日本の植民地時代、満州軍官学校を経て陸軍士官学校に入ったのも、解放後の一時期左翼の活動に傾倒したのも、貧困が原因だった。

1961年に軍事クーデターを起こし、政治的実権を握った時も、飢餓に苦しむような貧困からの脱出と、産業の近代化を最大の公約とした。

そして、軍事独裁という負の側面がありながらも、韓国の歴代大統領の中で朴正煕が最も支持されているのは、韓国を貧困から救ったからに他ならない。

高速道路が開通し、工業団地が建設され、浦項に巨大製鉄所が建設され、発展していくと、慶尚道の人たちは、朴正煕率いる民主共和党を熱烈に支持した。

かつて田中角栄の選挙区だった旧新潟3区は、農民運動が盛んで、社会党が力を持っていた。しかし田中角栄が冬は閉ざされる雪国にトンネルを通し、道路を整備するいわゆる「利益誘導」を行うと、保守王国に変わった。

大邱地方にも、似たような側面がある。

文=大島 裕史

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