朝鮮戦争時代、前線から離れていても、戦時であることに変わりはなかった。特に、釜山(プサン)の南にある島・巨済島(コジェド)は、朝鮮戦争とはいかなる戦闘であるかを、如実に物語る所であった。
私は釜山から高速船に乗って巨済島に行った。巨済島には、釜山から1時間ほどで行ける、
巨済島の古県(コヒョン)の港に入って、真っ先に目に入ったのが、ディスカウントストアやシネコンなどが入った、巨大ビルである。
【写真】闘病中スター俳優が『100日の郎君様』ド・ギョンスを激励した感動秘話
港周辺には、アパートも建ち並んでおり、島と言っても、かなりの街だ。そんなことをタクシーの運転手に言うと、「ここは造船所で潤っていて、韓国有数の金持ちの街ですよ」と、自慢げに語った。
巨済島では、約21万の人口の4分の1近くが何らかの形で造船所に関わっており、世界で1、2を争う韓国の造船産業を支える街である。また釜山の西にある統営(トンヨン)市とは、橋で結ばれている。
タクシーの運転手と雑談している間に、目的地の巨済島捕虜収容所遺跡公園に到着した。
朝鮮戦争中、共産軍が人海戦術を展開したため、捕虜は瞬く間に増加した。そのため1951)年の初め、前線から遠く離れた巨済島に捕虜収容所が設置された。
6月には、北朝鮮の人民軍約15万人、中国の人民志願軍約2万人の捕虜が収容され、女性の捕虜も300余りいた。
捕虜収容所を管理する国連軍は当初、捕虜の思想などを調査せず、無造作に収容していた。
しかし人民軍の捕虜には、心から北朝鮮の国家体制を支持する共産捕虜と、占領地で強制的に入隊させられた反共捕虜などがおり、やがて両者は激しく対立することになる。
捕虜たちは、労役で用いるツルハシなどで武装し、1952年5月7日には、共産捕虜による反乱が起き、国連軍のドット准将を監禁するという事件も起きた。もちろん、捕虜の間にも、多数の犠牲者が出た。
1951年7月から休戦会談が始まったが、妥結するのに約2年もかかった。会談がもつれた大きな原因として、休戦ラインをどこに敷くかという問題と伴に、捕虜の取り扱い問題があった。
全員北朝鮮や中国に行くか、希望者は韓国に留まるかで、本人の自由意思を尊重すべきだという国連軍側に、共産軍側は強く反発した。
そして休戦協定調印直前の1953年6月18日に李承晩大統領は、反共捕虜2万7389人を一方的に釈放している。
世界史に残る歴史の現場だけに、以前から訪ねたいと思っていたが、2010年に初めて訪れることができた。ただし、やや期待外れの感はある。
遺跡公園として整備された敷地内は、テーマごとに10数個の小さな展示館に分けられ、パネルや模型で、朝鮮戦争や捕虜収容所について説明している。
その横には、幕舎(テント小屋)など収容所の一部が再現され、ここでは韓国映画『黒水仙』のロケも行われた。
確かに敷地内を回ることで、戦争や捕虜収容所の理解が深まるような作りにはなっている。けれども分かりやすくした分、テーマパークのような軽さがあって、歴史の重さが伝わりにくい気がする。
そうした中でも公園の一角にある、無骨な鉄の橋には、当時の緊迫した状況が感じられた。この橋は、ドット准将監禁事件が起きた後、国連軍の兵士と捕虜とを完全に分けるために作られたものである。
橋に何の装飾もなされていないところに、急いで作らなければならなかった当時の状況が伝わってくる。
なお、2018年には1951年の巨済島(コジェド)捕虜収容所を舞台とした俳優ド・ギョンスの主演映画『スウィング・キッズ』も公開されていることも、最後に付け加えておこう。
文=大島 裕史
■【関連】除隊したド・ギョンスの2021年は新作映画の撮影に没頭した1年だった
前へ
次へ