『華政』を史実で読み解く…仁祖と貞明公主の確執はホントウか

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ドラマ『華政(ファジョン)』では、綾陽君(ヌンヤングン)が光海君(クァンヘグン)を廃位にして仁祖(インジョ)として即位すると、ことごとく貞明(チョンミョン)公主(コンジュ)と争っている。果たして、史実ではどうだったのか。

1623年にクーデターを成功させて16代王になった仁祖は、貞明公主をとても優遇した。なぜなら、貞明公主が仁穆(インモク)王后の娘だったからだ。

仁祖が朝鮮王朝の正統的な君主であることを許可したのは仁穆王后であり、仁祖には仁穆王后のご機嫌を取らなければならない切実な理由があった。それが、貞明公主を特別な待遇にすることにつながった。

貞明公主が高官の息子であった洪柱元(ホン・ジュウォン)と結婚したのも仁祖の後押しがあったからだった。さらに、仁祖は貞明公主に豪華な屋敷と広大な土地を与えている。仁祖はそこまで気をつかっていたのである。

それゆえ、『華政(ファジョン)』で描かれている仁祖と貞明公主の確執は、仁祖の即位当時にかぎると、史実とは違っていたのだ。

しかし、そんな仁祖が手のひらを返すときがやってくる。それは、仁穆王后が1632年に48歳で亡くなったあとだった。

中央が貞明公主を演じたイ・ヨニ、右が仁祖を演じたキム・ジェウォン

仁祖はとたんに貞明公主に冷たくなった。まるで「もう用はない」という態度を取るようになったのだ。このあたりは、仁祖の狡猾な性格が見え隠れしている。

『華政(ファジョン)』で貞明公主は、仁祖に対して呪詛(じゅそ)をした容疑をかけられる。

完全に仁祖の捏造であったのだが、史実でも似たような事件が起こっている。

仁祖が急に体調を悪化させたときに「誰かに呪詛されている」と思い始め、その犯人として貞明公主を疑ったのである。

そのときは重臣が「貞明公主に疑いをかけてはなりませぬ」と強く主張して、貞明公主は処罰されることを免れた。

しかし、仁祖は執拗だった。

最初に貞明公主の呪詛を疑ったのが1632年だったが、その7年後にまた仁祖は貞明公主の呪詛を取り上げた。

常に窮地に立たされていた貞明公主

確かに、呪詛物(人骨や小動物の遺骸など)が寝殿から発見され、仁祖は貞明公主に従っている女官たちを厳しく調べた。もはや、貞明公主の処罰は避けられない情勢になってしまった。

大ピンチに陥った貞明公主だったが、究極的に貞明公主を救ったのが高官の崔鳴吉(チェ・ミョンギル)だった。

崔鳴吉はこう力説した。

「貞明公主は宣祖(ソンジョ)大王の直系の王女です。もし、貞明公主を処罰したら、反正(パンジョン/仁祖の即位のきっかけになったクーデターのこと)の正統性はどうなってしまうでしょうか」

最終的に、貞明公主は崔鳴吉に救われたのである。

この崔鳴吉は『華政(ファジョン)』の中でも重要な役割を演じていた。このあたりは、史実とドラマを比べながら見ると面白い。

いずれにしても、母の仁穆王后が亡くなったあと、貞明公主は仁祖の豹変のせいで常に窮地に立たされていた。

そんな中でも夫の洪柱元に支えられて、7男1女をもうけた。

1649年に仁祖が亡くなったあとは、歴代の王に丁重に処遇された。そのおかげで、所有していた広大な土地を子孫に残すことができたのである。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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