15代王の光海君(クァンヘグン)は1623年にクーデターで廃位となった。彼に代わって王になったのが、クーデターを主導した仁祖(インジョ)だった。この王は、即位するまでは巧みな統率力を発揮したが、王に君臨してからは失政ばかりしていた。
特に、即位から4 年後に北方の異民族の後金に攻められた。光海君の統治時代には巧みな外交で後金との関係をうまくやっていたが、仁祖は後金を蛮族として軽蔑し、外交で明らかに失敗してしまった。
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後金は軍事力が強かった。朝鮮王朝は対抗できず、仁祖は都の漢陽(ハニャン/現在のソウル)から逃亡して江華島(カンファド)に移った。そして、後金に詫びて国が滅ぶのを辛うじて防ぐことができた。それなのに、仁祖は約束した和平交渉の条件を守らず、相変わらず後金を卑下していた。
激怒した後金は国号を「清」と変えたのち、1636年12月に10万を超える大軍で攻めてきた。このとき、仁祖は前回と同様に江華島に避難しようとしたのだが、すでに清の大軍が都に迫ってきており、やむなく南側の南漢山城(ナマンサンソン)に籠城するのが精一杯だった。この籠城中は、高官たちが「抗戦」と「降伏」のどちらを選ぶかで激論が交わされたが、最終的に朝鮮王朝は降伏するしか道がなかった。
その後が大変だった。仁祖は、16377年1 月に漢江(ハンガン)のほとりで、清の皇帝に対して額を地面にこすりつけて謝罪した。そのときは、王の額から血がにじみでたという。ここまでしなければ、朝鮮王朝は清から勘弁してもらえなかった。そうでないと、もはや滅ぶしかなかったのだ。
まさに「朝鮮王朝最悪の屈辱」であった。仁祖がクーデターを起こさず光海君がそのまま統治していたほうが、むしろ朝鮮王朝は安泰であったのだ。
しかし、現実は厳しかった。朝鮮王朝は莫大な賠償金を取られ、以後も清の干渉を受け続けた。
結果論から言えば、仁祖はあまりに恥が多い王であった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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